創作の南京事件

南京大虐殺、被害者30万人は

朝日新聞の創作だった

 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQ(占領軍総司令部)は「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(WGIP)の一環として、「太平洋戦争史」の掲載を新聞各紙に命じました。

このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。」(1945年12月8日朝日新聞)

 NHKラジオも利用されます。「真相はこうだ」が放送されました。南京事件のところでは「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」のセリフが繰返えし放送されます。NHKに抗議が殺到しました。このため放送は10回で終わり、今度は質問を受けて答えるという形式をとった「真相箱」 が登場しました。

 GHQは日本軍の悪逆な行為を言い立てます。放送に対する活字による反論等は検閲によってカットします。反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は「日本人洗脳工作」といえるものでした。

 1946年に南京大虐殺捏造をもくろむ蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた南京軍事法廷南京虐殺の被害を埋葬15万5千人、それ以外15万として判決では「被害者総数は三〇万人以上に達する」と認定されます。被害者30万人以上の原点です。

 東京裁判では中国国民党政府43万人の犠牲を主張しますが根拠がありません、推定被害を加算していき被害者数11万9千人と言う数字がでてきます。国民党政府は資料として南京軍事法廷と同じ埋葬隊が南京とその付近の15万5千体が埋葬したとされる資料を出します。しかし資料ある「紅卍字会」(こうまんじかい)4万3,123体は活動の詳細な記録があり信用できるのですが、より短い期間で11万2,266体を埋葬したとされる崇善堂(すうぜんどう)は、ほとんど活動の記録がなかったのです。

 1948年1月 それでも東京裁判は南京大虐殺の被害を埋葬15万5千人、それ以外4万5千人、合計20万人以上と断じ、責任者として松井 石根大将 に死刑判決を言い渡しました。

 1950年頃 には中国内戦に勝利した毛沢東により中国抑留日本人兵士の中国戦犯(後の中帰連)の洗脳がはじまります 。詳しくは「自虐史観洗脳」をお読みください。

 1952年日本の主権回復後、南京大虐殺は全く報じられなくなりました。WGIP は失敗でした。時代が近すぎ事実を知る当事者が多く虚構による洗脳は難しかったのでしょう、南京大虐殺は一時忘れ去られます。

 1971年8月より本多勝一記者が朝日新聞「中国の旅」を連載します。第三部として「南京事件」を報じました。記事を抜粋して読んでみましょう。

 1937年12月13日 日本軍の南京入城の様子です。 

日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した。川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった。どこへ行っても空気は死臭で充満していました。

虐殺は、大規模なものから1人~2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、約30万人が殺された。

日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた。このことについては、多くの写真が残っている。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・・。5万人もなだれこんだ日本軍。そのすべてではむろんないにせよ、かなりの兵隊が加わった強姦事件の被害者は何万人におよび、1人が1度に30数回もつづけて強姦された例があるので、件数は何十万件とも見当がつかない。10歳前後の童女から70歳以上の老女まで、すべて強姦の対象なのであった。

ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。

南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約30万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知る由もない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないと見る研究者もいる。洞 富雄 著『近代戦史の謎』の分析は、30万人、あるいは34万人説を事実に近いとみている。

 書式を整えてコピペして記事を読み直して唖然とした。朝日新聞と思っていたら朝日ソノラマ新聞だったんやね。何処のパラレルワールドやねん。検証も反証も全部無理や全くのでたらめやないか!日本軍は発情し続る快楽殺人者の集団なんか⁉

 失礼、あまりの無責任な記事に地の大阪弁に戻ってしまいました。これを紙面に掲載した朝日新聞に新たに戦慄すら覚えます。因みに日本軍の南京入城の翌日の様子を朝日新聞はこう報じています。

「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(1937年12月26日東京朝日新聞)

 入城の翌日14日に城内の第三国人を保護するため、日本の外交官、福田篤泰 も入城しました。早速届いた第三国人の手紙には

謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」とあり、南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補は後にこう証言しています。

街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない

南京事件」で語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものです。朝日新聞社史 に

「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」とあるように、朝日新聞の読者ですら拒否したのです。

 しかし 本多勝一記者には援軍が現れます。記事と同様の内容を示す大量の「日記」また目撃した、虐殺に加わったという元日本軍兵「証言」です。いずれも中帰連の皆さんです。

 朝日新聞の御用教授である元軍人の藤原 彰一ツ橋大学教授は中国の主張、また中帰連の「供述書」などについて、すっかり真に受けて次のように語ります。 

「この『中国の旅』の反響は深刻であった。日本軍による虐殺事件をあばき出し、かつての戦争における加害責任の問題を、事実にもとづいて日本人につきつけたからである。(中略)このルポの発表の舞台が発行部数の多い朝日新聞であったこともあり、事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口が、多数の読者の胸を打ったのである」 

 また洞 富雄元早稲田大学教授は南京大虐殺、被害者30万~34万人説の書籍を書き、朝日新聞が引用しています。安定のマッチポンプです。

 南京大虐殺の証拠の「日記」は60冊以上あってマスコミでも取り上げられていたのですが、研究者によって戦時中には生産されていないインクを使った万年筆で書かれ、漢字の使い方も時代にあわない等、後年捏造された可能性が高いと判明し、全く取り上げられなくなります。今調べても詳細が分かりません。中帰連が中国で書いたのでしょう、証拠の捏造では事件の否定はできませんが、捏造工作がおこなわれた証拠にはなります。朝日新聞も1冊持っていますが裁判所からの開示命令に背き開示してません。

 南京大虐殺があったと「証言」する元日本軍兵士もほぼ全員、中帰連です。

 30万人以上の被害者の南京大虐殺中国国民党、本多勝一 、洞 富雄、中国共産党が洗脳した中帰連の合同による創作だったのです。

 1978年頃に「中国の旅」は批判を受けつつも日本の教科書に記載され、百科事典、歴史事典にも記載されます。共産党、日教組、その他、左巻きの文化人が頑張ったのでしょう。

 1980年頃には中国の教科書にも記載されます。朝日新聞が報じるまで中国でも事実とされてなかったのです。

 1984年8月4日 「南京虐殺、現場の心情つづる 元従軍兵の日記、宮崎で発見」の見出しで批判を受けた「南京事件」の証拠として生首のごろごろ転がる写真など3枚と南京に入城した元歩兵二十三連隊の上等兵が記したという「日記」を併記して掲載します。これに対して、元歩兵二十三連隊の有志からなる「都城二十三連隊会」が行動を起こします。元兵士の懸命の調査により、この写真が全く別の場所の写真であることが判明するのです。「都城二十三連隊会」は記事取り消しや謝罪文掲載の要求を朝日につきつけます。朝日新聞は了承するのです。しかし

 1985年1月22日「(前略)日記は現存しますが、記事で触れられている写真三枚は南京事件当時のものでないことが解りました。(後略)」と報じ一部間違いを認めますが南京大虐殺は言張ります。「都城二十三連隊会」朝日に対して不信感をつのらせ写真の嘘が明らかになったのなら、あとは日記の真偽が焦点となる。と日記の開示を迫ります。朝日は、取材情報源の秘匿を主張し、さんざんゴネた上に朗読まではしぶしぶ行いましたが、筆跡鑑定のための開示を拒んだのです。

 1985年には「南京大虐殺記念館」が開設されました。 

 1986年8月「都城二十三連隊会」は日記の開示を求め小倉簡易裁判所に日記保全の申し立てをします。12月に「全て開示し写真に取らせよと」言う判決が下りますが、朝日は取材情報源の秘匿を理由に、福岡地裁小倉支部に抗告し、裁判引き延ばし戦術にでます最年長の隊長は心労のため入院しました。今なお朝日は日記を開示せず真相を隠蔽していています。 

 1990年に度重なる批判に対し本多勝一記者は雑誌でこう反論しました。

問題があるとすれば中国自体ではありませんか」と反論になってませんが、この記述から「中国の旅」が「中国の視点」を語るもので虚偽だったことを自身で知っていた事がうかがえます。「中国の視点」は自国の悲惨な戦争体験の投影だったと思えます。

 2006年9月 「南京大虐殺記念館」から 本多勝一 と洞 富雄(故人)に「特別貢献賞」が贈られます。本多勝一洞 富雄はWGIP でも成しえなかった日本人に自虐史観を植え付けることに成功し中国に感謝されたのです。

 朝日新聞は上記の1937年12月26日の記事は日本軍の圧力で事実が報じられず 。他の史料と齟齬が多いにも関わらず、うわごとのように「中国の旅」は事実だと言張っています。

 事実を伝えるという新聞社の使命を放棄しているのです。

 2017年12月「南京大虐殺記念館」 はリニューアルしますが朝日新聞の記事は信頼性が低いとの理由で本多勝一元記者の写真ともども展示を取り下げました。 


私の考える南京大虐殺 

 私は研究者ではなく 少し史料を眺めただけなのですが東京裁判の20万人はWGIP の為に水増しした被害者だと思えます。本当の被害者は「紅卍字会」埋葬した4万3,123体+「崇善堂」 も7000体位は埋葬したとされているので5万人強程度だと推測します。遺体の目撃談が少ないことから南京城下の遺体はほぼ全部埋葬されたと考えました。

 安全区外の略奪、強姦、虐殺は多くが「日本軍を騙る国民党軍兵」だと言う最近の調査結果もあります。日本軍の軍規違反が語られる理由ですね。便衣兵が生き残るための略奪し日本兵を名乗り強姦、虐殺 を行うことで日本軍の評判を貶める情報戦でもあったのでしょう。日本軍入城以前に国民党軍兵が民家を焼き物資を強奪していたと言う証言もあります。当然住人は殺害されたのでしょう。便衣兵が服欲しさに住人を殺害する事件も多数の記録があります。 

 安全区外の後ろから撃たれた民間人男性の死体が複数目撃されてますが日本軍が逃げる人物を更衣兵として射殺したのでしょう対ゲリラ戦では当たり前の行為です。

 日本軍は投降した2万人近い捕虜の扱いに困っていた(食料などの不足)ことは事実だと思えます。投降した捕虜をわざわざ虐殺するメリットは日本軍にありません。 解放時に第三勢力と戦闘となり木製の檻が燃え、または戦闘に巻き込まれて多数が死に、残りは逃げた言うのが真相に近いと思います。

 そもそも5万人被害者がいてもすべて日本軍が殺したとするのは早計です。相当数は国民党軍の被害ではないかと考えます。

30万人大虐殺は中帰連の日記や証言が捏造だと判明すると信じられる話ではありません。 

虐殺などでなく更衣兵との対ゲリラ戦の戦場だったと思います。