国民を洗脳し権力に執着する李承晩

韓国の夜明けは遠い


自国民を反日へ洗脳


 戦後最高権力を握った李承晩は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国なりました。

 朝鮮戦争がひと段落すると国中に平和だった日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれ出したのです。李承 晩大統領は保身の為、また自国民虐殺等の残虐な支配 を糊塗し自身の政権の正統性たもち、国民がもつ日本統治時代の郷愁を断ち切る為

「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」 と国民に嘘をついて自己政権を正当化しました。日韓併合で国を追われた恨みもあったのでしょう。

 1951年12月23日 李承晩大統領は保身のため与党自由党を結成し権力強化を図りあらゆる不正や暴力で権力にしがみつきます。

「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いと国民に説きました。

 日本統治時代の真実を語る者を「政治犯」として徹底的に弾圧し、強烈な反日教育で国民に日本への憎悪を植え付けたのです。

李承晩ライン 

 サンフランシスコ平和条約に参加を出来なかった韓国政府は1951年7月19日にアメリカ対し、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすることを要求する要望書を出しました。8月10日にこれらの要望に対しアメリカは「ラスク書簡」にて回答。在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみを認め、その他の要求は拒否されました。因みに波浪島は韓国が主張する未知の島です。

 1952年1月18日サンフランシスコ平和条約が1952年に発効され「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越した、李承晩は海洋資源独占と竹島を占領するため李承晩ラインを再び宣言します。境界線を設定した主目的は日韓両国間の平和維持にあると発表し、韓国では「平和線」と宣言されました。

 1952年2月12日 、アメリカは、韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告しますが、李承晩 はこれを無視します。

 当時日本はサンフランシスコ平和条約に署名はしていたものの、発効3ヶ月前であり主権の回復はまだ出来ておらず自衛の手段を一切持ちませんでした。韓国はこの境界線に基づき竹島を不法占拠し、日韓基本条約が結ばれる13年の間で日本の漁船328隻を拿捕し、漁師3929人を拘束、そのうち44人が死傷しました。

 抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられていました。共産主義者だとわかると抑留期間も数年間にもおよびました。

 後に韓国政府は日本政府に対し、拘束されている日本人漁師釈放の代わりに日本の刑務所で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されている韓国人受刑者(北韓送還阻止工作員と朝鮮進駐軍 )の釈放を要求します。日本政府はその要求を受け入れ受刑者472人を釈放し永住許可を与えました。

 1953年2月4日に公海上で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸』及び『第二大邦丸』が韓国海軍によって銃撃の後拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾し、韓国側が治療を放棄したため死亡した第一大邦丸事件も起きています。

釜山政治波動(プサンせいじはどう)

 1952年5月~7月、大韓民国の臨時首都となっていた釜山市で起こった政変です。

 国会議員による間接選挙で初代大統領に選出れた李承晩の任期は4年です。1948年7月選出され1952年8月で満了することになっていました。しかし2年前の第2代国会議員選挙では反李承晩勢力が多数派を占めていた上に、戦争中に発覚した行政の無策国民防衛軍事件居昌良民虐殺事件など不正腐敗が発覚したことで再選は絶望視されていました。

 そのため李承晩は、大統領の選挙制度を国会議員による間接選挙から国民による直接選挙へと改正することで、自身の再選を確実なものにしようと改憲案を国会に提出します。しかし野党が多数の国会で改憲案は否決されました。

 これに対し政府は国会解散要求する官製デモを展開、臨時首都となっていた釜山一円への戒厳令が宣布され国会議員を検挙するなど改憲反対派を弾圧します。

  6月3日 にアメリカ大統領であるトルーマンも改憲に伴う政治的混乱を非難する覚え書きをに韓国政府に発送します。(これには、イギリスやフランスなども同調)。また、国連も6月6日に国連韓国委員団の立場を全面的に支持する声明を発表し、一連の出来事について非難しました。 

 7月4日、大統領の直接選挙制を軸とする憲法改正案、所謂「抜粋改憲案」がほぼ全会一致で可決されます。8月5日直接選挙制によって実施された大統領選挙で 李承晩大統領は再選を果たすのです。

朝鮮戦争休戦協定

 1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案し停戦が模索されます。1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されましたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航しました。

 1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が一遍します。

 1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中であります。

 調印者は金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しませんでした。

 停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされています。

四捨五入改憲(ししゃごにゅうかいけん)

 1954年当時の大韓民国憲法では、大統領の任期は1期4年で再任は1回のみでした。李承晩大統領は任期が満了する1956年には退かなければならなかったのです。しかし終身大統領を目論んでいた李承晩は、憲法を改正して再任制限を撤廃することを目指しました。

 1954年5月20日第3代国会議員総選挙において大統領与党である自由党は改憲に必要な3分の2議席を確保するため、警察組織を利用した選挙干渉や不正選挙を公然と展開します。しかし与党自由党の獲得議席は総議席203議席中99議席に留まります。無所属議員を入党させて第3代国会開会(6月9日)後に136議席を確保し9月6日に自由党議員135名の連署による憲法改正案が国会に提出されます。民国党(民主国民党)を初めとする野党及び無所属議員は改憲反対闘争委員会を結成して改憲反対運動を展開します。

 与野党は激しい攻防の末、11月27日に改憲案の票決が行われました。結果賛成135票で改憲に必要な136票に1票不足したため、国会副議長は改憲案の否決を宣言します。

 この結果に慌てた自由党は、翌28日に緊急の議員総会を開いた上で

「改憲に必要な203票の3分の2の正確な数値は"135.3333..."であり、自然人を整数では無い小数点以下まで分けることは出来ないから、四捨五入の論理によって、もっとも近い値の整数である135票を得た改憲案は可決されたと見なすべきであり、国会副議長の否決宣言は錯誤による物である」との声明を発表します。

 これを受け、翌29日の国会で国会副議長が先日の否決宣言を撤回して改憲の可決を宣言します。反発した野党議員は議事堂から退場し、与党自由党のみで改憲動議を満場一致で再可決します。政府は憲法が改正されたことを直ちに公告します。その後憲法の改正規定が変更され、改正時の大統領には改正内容は適用しない事とされました。

李承晩大統領、官製民意により3選 

 1956年5月15日大統領選挙で李承晩大統領に3度目の当選を果たします。同時に行なわれた副大統領選では、民主党の張勉が当選します。

 李承晩は当初、「自分が3選することは民主主義に反するので、出馬しない」と声明を発表しました。自由党と警察は官民を動員して李承晩大統領の出馬を求める官製デモを組織します。李承晩は「民意により再出馬する」と声明を発表します。

 反李承晩勢力が結集して結成された保守系の新党である民主党は、1956年3月28日に正大統領候補に申翼熙、副大統領候補に張勉を指名します。他勢力として進歩党創立準備委員会を結成し、3月31日に大統領候補に曺奉岩を、副大統領候補に朴己出をそれぞれ指名しました。これらの候補者以外にも数名が立候補しましたが、実質的には自由党と民主党の一騎討ちの選挙戦となりました。

 民主党は「もう生きられない代えてみよう」のスローガンを掲げ、警察や官吏による選挙妨害にもかかわらず、 ソウル特別市内を流れる漢江河川敷で行なわれた選挙演説会では30万を超える聴衆が参加するなど、ソウルなど大都市部を中心に李承晩の独裁政治に不満を持っていた国民からの支持を集め、政権交代は間近と見られていました。

 しかし、申翼熙大統領候補が全羅北道へ選挙遊説するために乗車していた列車の車中、脳溢血の発作を起こし5月5日に急死します。李承晩大統領の再選は確実なものとなりました。選挙の焦点は副大統領選挙に移ることになり。進歩党は朴己出副大統領候補を辞退させることで民主党に協力し、その結果、副大統領は民主党の張勉が当選し李承晩の絶対権力に陰りが見え始めます。 

進歩党事件(しんぽとうじけん)

 1954年11月10日、曺奉岩を中心とする勢力は、社会主義的綱領及び政策を掲げた進歩党を結成。「革新政治の実現」「収奪無き経済体制の確立」「血を流さない平和方式による祖国の統一」という当時の韓国においては斬新なスローガンを掲げて各階層の支持を受けつつ徐々に組織を拡大し活発な活動を展開しました。1956年5月大統領選では李承晩に対し善戦します。

 1958年1月11日夜、警察は進歩党委員長曺奉岩、副委員長朴己出、金達鎬、幹事長尹吉重など党幹部10名余を国家保安法違反容疑で逮捕します。そして同年2月20日、陸軍特務部隊は、北朝鮮のスパイである梁明山が曺奉岩として接触して彼に朝鮮労働党の政治資金を渡したと発表します。

 2月25日には進歩党が北朝鮮の主張と同じ南北統一総選挙の実施を主張していることや、北朝鮮スパイとの接触などを理由に政党登録が政府によって取り消され、5月に予定されていた第四代国会議員総選挙を目前にして進歩党は非合法とされました。

 第一審で曺奉岩に懲役5年の判決が宣告されたものの国家転覆罪については無罪となります。彼以外の進歩党幹部全員に無罪判決が下されたました。この判決に対し自由党政権は「反共青年決起大会」と書かれたプラカードを掲げ、「容共判事柳秉震を打倒せよ」「曺奉岩一党にスパイ罪を適用して処罰せよ」等と叫ぶ官製デモを行いました。

 第二審と大法院では曺奉岩と梁明山の両被告に対してそれぞれスパイ容疑で死刑が宣告、それ以外の被告については無罪が宣告されます。

 1959年7月30日曺奉岩被告の再審請求も棄却され翌31日電撃的に死刑が執行されます。

 事件から40年が経過した1999年8月、当時、事件の捜査にあたっていた捜査員の一人が「事件は当局によって捏造されたものである」と新聞社に証言します。それによると当時ソウル市警察局の捜査要員は「当時の大統領官邸から、曹奉岩を捕まえなければ李承晩大統領の再当選が不可能なので、どんな手を使ってでも捕まえろ、という指示を受けた」と証言します。捜査過程では「上部から『進歩党をなくし、曺奉岩を殺すぐらいの事件を起こさねば、お前が死ぬぞ』という脅迫を受けた」ことも告白します。李承晩の工作と考えられていた進歩党事件の真相が捜査関係者の証言で改めて裏付けられました。

在日朝鮮人の帰還事業

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本国主権回復します。

  李承晩は日韓政府間協定が結ばれていないとして在日朝鮮人の引取りを拒否します。韓国は朝鮮戦争による荒廃からの復興が遅れており、かつ農村部を中心に過剰な人口を抱えてました。また日本の在日には李承晩の迫害から逃れた者も多く、自身の体制に異を唱えるの者の増加は望まなかったのでしょう。

 日本に暮らす在日朝鮮人は60万以上に及びました。1956年(昭和31年)の生活保護費の削減と1957年~1958年にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃して生活に困窮する者も多かったのです。

 1956年北朝鮮の金日成国家主席は朝鮮労働党第三次大会で在日朝鮮人学生を衣食住・学費の全てを無償で北朝鮮へ受け入れると発表し、在日朝鮮人の帰国を呼びかけたます。声明を受けて、日本国内で朝鮮総連は帰国促進運動を繰り広げます。北朝鮮政府は日本政府との対話チャンネルを確保し、日朝国交正常化のきっかけとしたいという思惑があったのです。日本と韓国との国交正常化を牽制する目的もあったと思えます。事実、在日朝鮮人の「北送」を理由として、日韓会談は数度中断しています。

 当時、ソ連の支援をうけ復興を果たし生活の心配のない社会主義国の北朝鮮とアジアの最貧国であり独裁体制で政治不安のある資本主義国韓国の体制間競争は北朝鮮が優位にありました。

 朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・マスコミ各社が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促しました。特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたとされています。

 日本と北朝鮮には国交が存在しませんでしたので実務は日朝両国の赤十字社によって行われました。日本においては新潟日赤センターが拠点とされました。

 1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航し、数度の中断を含みながら1984年まで続きました。93,340人が北朝鮮へ渡航し、その内うち6,839人は日本人妻や保護する子女といった日本国籍保持者でした。帰国船の費用は北朝鮮政府が負担し、事業の後期には初代万景峰号が使われています。日朝間を頻繁に往来する帰国船は、北朝鮮による朝鮮総連への指導・連絡や諜報活動として日本や韓国への工作員送り込みにも利用されていた言われています。

北朝鮮への帰国者の実態

 在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業は、主要全紙が居住地選択の自由という人道主義を尊重する「美談」として報じました。しかし1990年代中盤ごろから脱北者たちが帰国者の悲惨な実情を証言するようになり、実態が知られる様になりました。

 帰国者を待っていたのは、日本での宣伝とは大違いの貧困という現実と北朝鮮社会で最下層に位置づけられた差別だったのです。

 北朝鮮では金日成に対する忠誠度と出身成分によって、国民を「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の3つに分類していました。動揺階層は党に抵抗する可能性があるとして監視対象になり、敵対階層は党に否定的な態度をとるとされ、より厳しい特別監視対象になったのです。

 帰国者の多くは、出身成分で最下層の「敵対階層」またはその上の「動揺階層」に分類され監視対象とされました。さらに、多くの帰国者が「望む仕事に就ける」と言われていたものの実際には北朝鮮当局によって、一方的に配属先を決めらてました。独身の帰国者の場合は、帰国者同士でなければ結婚できないという差別もあったのです。

北韓送還阻止工作員の結成

 1959年8月、韓国の李承晩大統領は

「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示します。

 1959年8月、カルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結したことに対し韓国民団 (在日本大韓民国居留民団)は北送反対闘争委員会を結成しました。8月25日には韓国民団員たちが日本赤十字本社に乱入します。

 李承晩在日朝鮮人引取りを拒否していて居住地選択の自由という人道主義に反すると国際社会から非難されていました。北朝鮮の国力が大きくなり韓国より国際的評価が上がるのも面白くなかったのでしょう。危機感を募らせた李承晩日本に工作員を送り込み北韓送還阻止工作を行うことを決定します。

 1959年9月、韓国政府は国内の在日義勇兵(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために日本に潜入して妨害工作活動を行う工作員となるよう要請したします。韓国政府は在日義勇兵41人と軍予備役将校と警察試験合格者24名、さらに日本国内で組織した工作員も含め北韓送還阻止工作員を結成しました。

 1959年9月末、ソウル江北区牛耳洞の訓練所で「破壊班」「説得班」「要人拉致班」に分かれて訓練が行われます。

 1959年12月初旬、潜入アジトを設けるために先発隊が慶尚北道慶州市甘浦港から船員に偽装して貿易船に乗り込み、ボートに乗り換えて小倉と関東で活動する部隊ごとに海岸から上陸しました。工作事件の舞台となる新潟県に隣接する富山県にはテロ部隊の本部がおかれたのです。

 韓国政府のテロ計画は主に次の4点を任務としていました。

 在日朝鮮人帰国事業担当の日本側要員の暗殺。

 日本赤十字社の破壊。

 新潟港に通じる鉄道線路を破壊。

 韓国民団に諜報活動員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界へ浸透する。

新潟日赤センター爆破未遂事件


 1959年12月4日、警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求めます。工作員の鞄の中からは雷管を装填した4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕されました。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1ℓ缶4本を隠したウィスキー箱が発見され、工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明しました。

 この時逮捕された工作員は、日本国籍を取得した在日韓国人と在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人でした。在日韓国人は事件前には新聞記者と自称して日本赤十字社本部の周辺を調べており、日本赤十字社からは出入り禁止とされ怪しまれていたのです。工作事件は領事館の金永煥三等書記官と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとっていたことも明らかになりあました。警察は韓国の工作員を次々と摘発しました。

 1959年12月7日には釜山港から神戸港に上陸しようとしていた工作員を載せた大栄号が関門海峡で海上保安官に臨検されて強制停泊させられた後に、韓国に引き返しています。

 1959年12月12日には巨済島を出発した韓国工作員を載せた明星号が下関近海で暴風に遭い沈没し12名が死亡しました。が12月13日巨済島を出航した別の工作船が広島県呉港から工作員を潜入させています。

 1959年12月下旬には在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した後、再び日本に渡航して大阪府に住んでいた男性のもとに、韓国に帰還したままであった在日義勇兵の友人が8人の男を引き連れて現れると、そのまま居候するようになり、夜にはラジオで韓国から送られてくる暗号を受信するなどして工作活動を開始しました。工作資金2000ドルも送付されてきたのでした。

 1960年4月19日に四月革命が起こり、李承晩大統領が失脚すると工作活動は下火となりました。5月3日、山口県下関彦島江ノ浦桟橋から鮮魚運搬船で韓国に密出国しようとしていた韓国工作員24名が逮捕されました。工作員たちは先に神戸、長崎、下関付近から密入国していたのです。5月10日、警視庁外事課が韓国工作員を出入国管理法違反で逮捕。工作員は李承晩大統領直属の景武台機関出身で在日同胞の北朝鮮帰国阻止決死隊の隊員でした。

 2009年5月19日、工作活動中に死亡した工作員12名が「在日同胞北送國家任務随行殉職者」として戦没者等が祀られている国立ソウル顕忠院で顕彰されました。

 2011年4月29日、韓国国会本会議で在日朝鮮人の北送を阻止する警察特殊任務遂行者の補償に関する法律案が承認され、工作員とその子孫たちに慰労金など104億ウォンが給付されています。

背水の大統領選挙

 1960年5月には正副大統領の任期満了に伴って大統領選が行われる予定でした。

 李承晩政権与党である自由党は12年間にも渡る独裁と相次ぐ失政によって、国民の支持を完全に失っていました。与党自由党は政権維持のためにあらゆる不正手段を使わざるを得ないところまで追い込まれていました。仮に高齢の李承晩が職務を継続できない事態になった場合、憲法の規定で大統領職は自動的に副大統領に継承されるため、この選挙で正副両大統領選挙で勝利することに自由党は全力を注ぎ、今までにまして官憲や暴漢を動員した不正選挙を展開しました。

 最初に自由党は有力野党である民主党を封じるために早期選挙を計画しました。

 民主党は大統領候補に趙炳玉を副大統領候補には現職副大統領である張勉を指名しました。しかし趙炳玉は病気のため1960年1月に渡米します。李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定します。これに対して民主党は

「3月選挙は選挙慣例に反している上に、趙炳玉候補が病気治療中であるにもかかわらず選挙を早めるのは、フェアプレーの精神に反している」旨の公開質問状を李承晩大統領に提出して回答を求めますが、3月選挙方針を変えることは出来ないとして強硬姿勢を貫かれます。

 民主党の趙炳玉候補は、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝します。大統領選挙は李承晩の当選が事実上確定しました。与党自由党は、副大統領候補の李起鵬を当選させることが最重要課題となったのです。大統領候補を失った民主党は、大統領候補が一名のみの場合は、その得票数が全有権者数の三分の一以上でなければならない選挙法の規定を逆手にとって、李承晩の得票数を三分の一未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、現職副大統領である張勉を大統領候補として再選挙に持ち込む戦術を展開しました。

やりすぎた不正選挙

 自由党は、官憲を動員した不正選挙を計画しました。公務員による選挙運動網を作って、警察がこれを監視する体制を採ったのです。そのため内務部(現大韓民国行政安全部)では「公務員親睦会」を組織させ、警察にはいかなる手法を使ってでも自由党候補を当選させるように指示しました。また、内務部は長官、次官、治安局長などが中心となってソウル特別市と各道の警察局長、査察課長、警察署長等の警察幹部、各市長や郡守、邑長等の自治体首長を内務部に召喚して以下のような選挙運動方針を指示しました。

 自然棄権票、選挙人名簿に虚偽記入された幽霊票、金銭で買収して棄権するように工作した票などを有権者の4割程度作り、事前に自由党立候補者に記入、投函させること(四割事前投票)。

 自由党立候補者に投票するようにあらかじめ工作した有権者で3人組又は9人組を編成、その組長が組員の投票用紙記入状態を確認した後で、各組員が記入した投票用紙を自由党側の選挙委員長に見せてから投票箱に投票させる(三人組、九人組公開投票)。

 自由党支持者に腕章をつけさせて投票所周辺を自由党一色にして、野党支持の有権者に心理的な圧力を加えて自由党に投票させるように仕向ける。

 民主党側の投票立会人を買収する。それが出来なかった場合は何らかの理由をつけて、民主党立会人を投票所外に追い出す。

 さらに追加で

 投票箱輸送途中、投票箱を自由党立候補者に有利に偽装工作した投票箱と取り変える。

 開票時、混乱する際を利用してあらかじめ準備した自由党候補票の束を混ぜて入れる又は野党候補票を取り除く。

 開票完了後、偽装した投票計算書を公表する。

 等の工作を計画したのです。

 3月15日の投票日には、自由党は全国で腕章部隊や暴漢などを動員して野党側の投票立会人を投票所に立ち入らせないように妨害、3人組や9人組等による公開投票を公然と実施しました。その結果、少なくない地域で、李承晩李起鵬両候補の得票率が95~99%にまで達したため慌てて各道知事や、警察局長へ得票率を下げるように指示する事になりました。

 このような大規模不正に対し、民主党は投票締め切り30分前に本選挙が不正選挙であり無効であることを宣言します。

 3月18日、中央選挙管理委員会は李承晩が大統領に当選、李起鵬が副大統領に当選したことを発表します。同日、国会でも正副大統領の選挙結果を承認して李承晩李起鵬がそれぞれ正大統領と副大統領に当選したことを宣言しましたが民主党は先に述べたように本選挙が不法選挙であると宣言、李承晩大統領の即時辞任を要求して国会から退場していました。


3月15日馬山事件

 3月15日の大統領選挙投票日当日、慶尚南道馬山で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こしたました。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲してデモ鎮圧を図り、8名が死亡、50名余が負傷します。

 このデモに参加して行方不明となっていた馬山商業高校学生の金朱烈が27日後の4月11日、馬山沖の海上で目に催涙弾が突き刺さった遺体となって発見されました。この事をきっかけに学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高待ったのです。

4月18日高麗大デモ

 4月18日には首都ソウル市においても高麗大学校の学生約3,500名が馬山事件で逮捕された学生の釈放と学園の自由などを求めて市街地をデモ行進しました。その後にデモ隊は国会議事堂前で座り込みをした後、午後7時頃には大学に戻り始めていたのです。ですが鍾路4街付近に差し掛かった時、大統領府の指令をうけた暴徒100名余りがデモ隊に襲いかかり、約20名余りの学生が重軽傷を負う事態となりました。学生デモに対する暴徒の襲撃は学生や市民の強い反発を招く結果となります。

四月革命(しがつかくめい) 

 翌19日、ソウル大学を初め延世大学校や中央大学校などソウル市内の大学生数万名が決起し、デモ行進を行いました。そして同日正午には、大統領官邸である景武台を包囲し、一部のデモ隊は副大統領候補で李承晩大統領の側近である李起鵬の自宅を占拠します。デモには中学高校生や一部市民も参加し午後2時半頃までにはデモ隊の規模は20万名余りにふくれあがり、李承晩大統領の退陣と不正選挙無効のスローガンを叫びます。

 デモ隊に対し警察は、景武台や中央庁付近で無差別発砲を行い多数の死傷者が出ました。これに激高した一部のデモ隊は市内各所の警察官派出所、与党系の新聞であるソウル新聞社屋、反共会館(3・15不正選挙において前衛隊の役割を担った大韓反共青年団の本部が置かれていた)を焼打しました。デモはソウルのみならず全国各地に波及し、釜山や光州、大邱、清州、仁川など各地方都市でもそれぞれ数千名余りの学生デモ隊が警官隊と衝突しました。

 全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人に登りました。これに対し李承晩は19日午後5時を期してソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告します。しかし軍は政治的中立を維持しデモ隊鎮圧のための積極的行動は行われませでした。 

 4月21日、国務委員(閣僚)と自由党党務委員が4・19デモの責任を取る形で一括して辞表を提出します。そして23日には副大統領選挙の当選者である李起鵬が当選辞退を考慮する旨を表明、同じ日には民主党張勉副大統領が辞任を表明します。

 こうした状況下の4月25日、ソウル大学に全国27大学の教授400余名が集結し、大統領と国会議員、最高裁判事の辞任、正副大統領再選挙の実施、不正選挙の処断を求める時局宣言文を採択後「4.19義挙で倒れた学生の血に報いよ」という横断幕を掲げて、デモ行進を行っいました。学生と市民は「再選挙の実施」「現政権の退陣」などのスローガンを叫びながらデモ行進を開始しました。その規模は数万名にふくれあがり、世宗路、国会議事堂そして光化門一帯を埋め尽くしたのです。そしてパゴダ公園に立てられていた李承晩大統領の銅像がデモ隊によって引きずり倒されたのです。

 こうした事態に国防部長官金貞烈や許政外相が李承晩大統領に対して辞任を説得、26日に宋尭讃戒厳司令官(陸軍参謀総長)の仲介によって実現した大統領とデモ隊代表による会談の場において下野することを表明、同日午前10時頃にラジオを通じて辞任を発表しました。そして国会では午後緊急本会議を開き李承晩大統領の下野を要求する決議案を満場一致で可決、翌27日に李承晩は公報室を通じて辞任を正式発表し国会に辞表を提出、直ちに受理され、12年間の独裁にやっと幕が下ろされたのです。

 李承晩は5月29日にハワイへ亡命し1965年7月19日に90歳で客死し生涯をおえます。 

第二共和国期へ

 李承晩が大統領を辞任した翌日の4月27日から民主党 の許政外相が過渡政府の大統領権限代行を務め国政を指揮しました。
 1960年6月15日に責任内閣制への憲法改正が実施された後で、1952年7月の憲法改正で導入こそされていましたが選挙が行われずいた参議院と民議院の選挙が同時に行われました。

 自由党は事実上崩壊し、政治的空白状態の中で群小政党が乱立する中での選挙戦となったのですが、結果は民主党の一人勝ちででした。当選者数で2位となった無所属当選者の多くは、大部分が国会開院と同時に民主党に入党しました。

 13選挙区で不正が摘発され、直ちに再選挙が実施されるなど、不正が横行した李承晩共和国時代とは打って変わって、自由で公正な雰囲気の中で選挙は行なわれたのです。

 進歩党事件以後影を潜めていた革新勢力は、四月革命以後政治の第一線に踊り出て、社会大衆党や韓国社会党を結成して選挙に挑みましたが、準備期間が短く十分な選挙体制を組めなかったため、民議院で233議席中5議席、参議院で58議席中2議席と惨敗しました。

 8月12日 民議院・参議院の合同会議で民主党旧派の尹潽善が大統領に選出されました。

 12月には総選挙の結果発足した民主党政権下で、11月1日に第5次改正がなされた地方自治法に基づいて行われ、ソウル特別市と地方自治団体である市・邑・面(基礎自治体・道(広域自治体)の団体長と議員を選出するため地方選挙が行われました。

 この選挙は、第2共和国発足後与党となった民主党と、張勉政権における閣僚配分を巡る争いから民主党を離党した旧派が結成した新民党との対決が焦点となりました。

5・16軍事クーデター

 1961年5月16日 軍部によるクーデターが起こります。

 4月初め、38度線分断が固定化し休戦時に強化したことで肥大化した韓国軍では軍の人事が停滞し進級が出来なかった下級将校に不満が蓄積されていました。不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、逆に運動の首謀者が追放されそうになっていたのです。

 社会情勢は民主党政権の党内抗争で政治的無策であり、経済状況は良くならず悪化します。国民の不安も高まり、民主的改革に対する民主党の曖昧な態度に反発して学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動も高まっていました。

 こうした背景の下、金鍾泌予備役中領(中佐)を初めとする陸士8期生の佐官級将校9名によってクーデター計画が策定されたのです。当初クーデターは、4・19学生革命から1周年となる1961年4月19日には革命1周年を記念する民衆蜂起或いは学生デモをが起きると予想し、鎮圧する口実の下に実行する予定でした。しかし、4月19日は何も起こらず平穏に過ぎたため、失敗します。次に決行日を5月12日に延期し、再度計画を練り直したのですが、計画が漏洩してしまったため、5月16日が最終決行日とされ、4000名以上兵士にが参加して、クーデターはおきました。

 5月16日午前3時を期してクーデターは決行され、朴正煕少将を最高指揮官とする革命軍は、漢江大橋付近で憲兵第7中隊50余名と銃撃戦を行った以外は、大きな抵抗も無しに中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分を制圧したのです。こうして首都を制圧した革命軍は午前5時、中央放送局の放送を通じて軍事革命が行われたことを全国民に宣布しました。

革命委員会の設置で軍政へ

 クーデターに成功した革命軍は軍事革命委員会を設置し、陸軍参謀総長である張都暎を説得して議長に就任させ、クーデターを指揮した朴正煕は副議長に就任しました。そして軍事革命委員会は六項目からなる革命公約を発表したのです。また軍事革命委員会布告第一号によって全国に戒厳令が敷かれ、一切の屋内集会が禁止、出版や報道に対する事前検閲が実施されるとともに、布告第四号で現政権(張勉政権)の解任と国会及び地方議会の解散、政党や社会団体の活動禁止、張政権の全閣僚と政務委員の逮捕、国家機構の一切の機能を軍事革命委員会が代行することが宣言されたのです。以下6項目の革命公約が掲げられました。

 反共体制の再整備

 国連憲章と国際協定の遵守および自由主義諸国との紐帯強化

 腐敗と不正の一掃による清新な社会の創造

 絶望と飢餓に苦しむ民衆の救済

 国土統一のため共産主義と対決し得る国家の建設

 革命事業の完遂後、清新な政治家への政権移譲

 クーデター直後に宿舎としていた半島ホテルから脱出し、修道院に身を隠していた張勉首相は5月18日昼に姿を現して臨時閣議を開催、軍事革命委員会への政権移譲を決議します。また尹潽善大統領も非常戒厳令を追認し、軍事革命に対する国民の支持と協力を求める声明を発表しました。こうして第二共和国は崩壊し、軍政が敷かれることになりました。

 軍事革命委員会発足から三日目の5月19日、名称を国家再建最高会議に改称、治安向上や経済改善などを名目に韓国民の思想・言論を弾圧します。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)が発足された。このような朴の政治はその後の韓国政治史の長い軍事政権の土台を築き上げる事となりました。

 5月19日、アメリカ国務省は軍事政権への支持を発表します。そして軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立を標榜する革命公約に大いなる期待を表明しました。

 7月3日に、副議長を務めていた朴正煕 が中心となり張都暎 は議長を解任され翌月には予備役に編入され事実上失脚します。後任議長には朴正熙が就任し7月4日 には「悪法」とされていた国家保安法を修正・緩和する 反共法を公布しますしかし適用範囲が広いために、かえって摘発される政治犯罪事件は増加しました。

 8月12日には 朴正熙最高会議議長は「1963年夏に民政に政権を移譲」するとを発表します。10月20日から第6次日韓会談が始り1964年まで続くのです。

国家再建最高会議 の経済政策

 当時世界一の最貧国であった韓国はGDPで北朝鮮に抜かれていました。国家再建最高会議の議長に就任した朴正熙は経済の立て直しに着手します。

 1962年1月13日にソ連や北朝鮮をまねた第1次経済開発5カ年計画を確定します。

 3月22日に旧来の政治家の活動を禁止する政治活動浄化法が制定された事に抗議して国家の正統性維持のため留任してた尹潽善大統領が辞任します。

 6月10日 第2次通貨改革を実施、10対1で切り下げすると共に、通貨単位を「ファン」から「ウォン」に変更します。補助通貨単位は「ウォン」の100/1の「チョン」ですが使われることはありませんでした。この通貨改革によりようやくインフレーションは緩やかになったのです。

 12月17日に「第三共和国憲法」が国民投票によって承認され、大統領任期を2期までに定めた第三共和国が成立します。

 1963年2月26日 軍事クーデター勢力が中心となって、総裁を朴正煕とする民主共和党(共和党)が結成されました。

 10月15日 大統領選挙行われ、共和党の大統領候補である朴正熙が、民政党の尹潽善を僅差で抑えて当選します。

 11月26日 第6代総選挙、共和党が過半数を超える議席を獲得して勝利します。

 12月16日 国家再建最高会議は解散します。

 12月17日 第三共和国憲法発効、第6代国会の召集、朴正熙大統領の就任宣誓式挙行。第三共和国体制がはじまりました。

 1964年 朴正熙は外貨を稼ぐためベトナム出兵をはじめます。ベトナムでの韓国軍の蛮行は割愛します。1973年まで続きました。

 1964年6月3日 首都ソウルで、日本の経済支配をおそれ日韓会談に反対する大規模デモが起きます。政権打倒のスローガンまで登場。政府はソウル一円に非常戒厳令を宣布します。

日韓基本条約締結

 1965年6月22日 佐藤栄作内閣と朴正煕大統領との間で日韓基本条約が 締結します。

 韓国の主張は韓国併合条約は国際法上無効であり、日本の植民地支配に対する戦後賠償を強く求めました。その論拠は、併合条約の前提である第2次日韓協約が、武力による威嚇だったという物です。日本側は併合は合法的なものなので、賠償する必要はないというものでした。議論は平行線のまま紛糾したのです。

 最終的には朴正煕大統領が、賠償なのか支援なのかは問わず、日本からの無償三億ドル・有償二億ドルの提供を受けると言うことで曖昧な妥協を行い決着したのです。

 そのため、日本側は韓国は賠償権を放棄したと理解して「賠償」ではなく「支援」を行うとしたのですが、韓国の国民は事実上の「賠償」だと理解したのです。実際は朴正煕 が早く経済支援を受けることを優先したのが理由でした。しかし韓国側は併合条約を認めたわけではないのです。韓国の民衆は依然として併合条約は無効であり李承晩の洗脳で日本が李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行ったことが世界一の最貧国になった理由だと考えているのです。

 ベトナム出兵、売春婦の活躍や海外派遣、日本の支援金を個人補償に使わず韓国経済発展のための国内投資資金に回し、韓国は漢江の奇跡を起こします。

 朴正熙は民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしました。権力を握った朝鮮人はみな同じです。

 1979年10月26日朴正熙は側近の大韓民国中央情報部(KCIA)部長金載圭によって射殺されたます。享年61歳でした。

 韓国内では国民を含めての権力争奪は続きます。

 1987年6月29日に民主化宣言がされるまで韓国の権力争奪は続いたのです 。


自身は特別と存在信じ、自国民を殺し、欺き、権力にしがみつく李承晩 長生きはしたが幸せではなかっただろう。結局誰にも認めてもらえなかったのだから。 

共感力(社会性)が低いと人としての優しや思いやりは無くなるらしい

共感力は文化が作る力、文化がこんなに荒んでしまっては

後年はさらに共感力の低い国民が増えることになる

恨しく哀しい民族なんだね。