反日に彩られる韓国の歴史

内容は指導者による国民の迫害だった。

日本であまり報じられない韓国の歴史を簡単にまとめてみたい。

朝鮮系渡航者と太平洋戦争終戦まで

 1910年8月22日に韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有しました。

 1911年に李氏朝鮮王朝時代の貴族階級、両班出身で併合に反対し投獄され、後にアメリカ大学で学んだ李承晩(イ・スンマン)はアメリカに亡命し1913年にハワイに定住します。

 1919年この頃から日本は朝鮮半島から渡航者があまりに多く半島が労働力不足になるの事態を抑えるため段階的に日本への渡航を制限していきます。しかし、日本での職を求める朝鮮系日本人は減るどころか密航事件が多発し、1934年には密航取締まり強化を閣議決定しました。戦前日本に出稼ぎに来ていた朝鮮系日本人は100万人不法渡航は20~30万人(主に迫害を受けていた済州島民)と発表されています.1939年頃に日本国内の労働力低下で渡航制限を解除、太平洋戦争終戦時には朝鮮人渡航者が約200万人いたとされています。

 1919年4月中国の上海で大韓民国臨時政府の樹立が宣言。韓国初代大統領 李承晩はワシントンで臨時政府の欧米委員部を設立しています。

 1945年8月太平洋戦争終戦間際にソ連は日ソ中立条約を破り日本領だった朝鮮半島に兵を送り込みます。アメリカはソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領されました。

 1945年8月から1946年3月までの間に日本政府の配船のより約90万人、個別的引揚げで50万人合計140万人が朝鮮へ引揚げました。1959年日本政府の発表では在日朝鮮人の登録は61万人であり渡航理由を調査した結果、徴用労務者として来て日本に残ったのは245人だと判明しました。在日は全員自分の意思で住み続けているのです。

 1945年10月 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、李承晩は亡命先のハワイよりアメリカ軍直接統治下の朝鮮半島に帰還し親米派の韓国独立運動家として権力を蓄えていきます。

大邱10月事件(テグじゅうがつじけん)

 1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4000人が死亡しました。その後、水害による交通破綻や強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰しました。9月にはいると市民による抗議デモが頻発しました。10月1日に大邱府庁前での抗議デモに対して南朝鮮警察が発砲して市民を射殺します。その抗議活動により収拾がつかなくなったため、10月2日にはアメリカ軍が戒厳令を布告しました。

 戒厳令に反発がおき、南朝鮮全土で230万人が参加する騒乱に発展します。事態を収拾するために、アメリカ軍や南朝鮮防衛隊や警察、右翼団体が投入され、136名の犠牲者を出し騒乱は収拾しました。反乱を強引にねじ伏せた事でアメリカ軍への支持は失われ、共産主義団体への支持を増やす結果となりました。

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん) 

 1947年3月1日、南労党(南朝鮮労働党)支持者の多い済州島、済州市内で南北統一された自主独立国家を訴えるデモを行っていた島民に対して南朝鮮警察が発砲し島民6名が死亡します。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行されました。李承晩の一派は南労党 支持者への見せしめの意味も込め 略奪・性的暴行・虐殺を行う「権利」を与えられた右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み白日テロを行います。反共を掲げて警察組織を背景に島民を弾圧します。

 1948年4月3日済州島島民の不満を背景に南側単独選挙を行う事に反対する南労党は島民を中心とした武装蜂起を起こします。李承晩の一派は 韓国軍を投入し制圧します。残存勢力は遊撃隊員としてゲリラ戦で対抗するようになりました。治安部隊は潜伏している遊撃隊員と同調する島民の処刑・粛清を行いました。島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われています。村は焼かれ多くの犠牲者が出ました。

 韓国政府は犠牲者数を1万4千~3万人としていますが、犠牲者数を6万人以上とする研究者もいます。この時、多くの島民は日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となったとされています。1948年に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされています。

大韓民国 、朝鮮民主主義人民共和国 の建国

 1948年8月15日 朝鮮半島南部単独で大韓民国政府樹立を宣言。李承晩は韓国初代大統領に就任します。

 1948年9月9日ソ連の後援を得て金日成朝鮮民主主義人民共和国を成立させます。

麗水・順天事件(れいすい・じゅんてんじけん)

 1948年10月19日 済州島で起きた済州島四・三事件鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、隊内の南労党員が反乱を扇動します。これに隊員が呼応し部隊ぐるみの反乱となりました。反乱は麗水郡から隣の順天郡にも及びましたが、李承晩大統領は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日に反乱部隊は鎮圧されました。 

 残兵はその後北部の山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続き、非武装の民間人8000名も殺害されたと言われます。 この時も多くの者が日本へ密航・逃亡し在日韓国・朝鮮人となったとされています。

 事件による死者は一週間で2976名、行方不明887名、負傷1407名にのぼり、事件の首謀者と幹部152名が軍法会議で死刑となりました。李承晩は本事件で韓国軍内に多数の南労党員が浸透していることを知り、左翼勢力摘発は過酷を極め、左翼や南労党員の出身者など約4700名あまりが韓国軍から排除されています。 

 後に大統領となる朴正煕もこのとき逮捕され無期懲役を宣告されています。反乱部隊が第十四および第四連隊であったことから「四」の番号は不吉とされ、以後韓国陸軍の部隊番号の欠番とされました。

自己保身の為の圧政の始まり

 1948年12月1日 韓国の国家保安を脅かすような反国家活動を規制する「国家保安法」を制定します。

 1949年1月7日 対馬九州を含む李承晩ラインを宣言、戦勝国として「対馬と九州」を韓国の領土にし朝鮮進駐軍の日本へ駐留する権利があると、米国に対し対馬と九州の引き渡しと朝鮮進駐軍の日本駐留を要求するも一蹴されアメリカ軍に激しく叱責されます

 1949年2月 半島南部で大演習を装って対馬への侵攻の準備を始めますがアメリカ軍が制止します。この事が後に韓国の軍事力を大きく下げる原因となります。

 4月に国連安保理は韓国の国連加入案を否決し5月には米軍から李承晩政権への武器供与を停止され、6月には在韓米軍の撤退を発表します。 

  6月5日 左翼系人物を体系的に保護・管理・監視する機関として「保導連盟」(国民保導連盟)が成立します。 

聞慶虐殺事件(ムンギョンぎゃくさつじけん)

 1949年12月24日 に大韓民国慶尚北道聞慶郡山北面で、共産匪賊に協力したなどとして、韓国陸軍第2師団第25連隊の第7中隊第2小隊第3小隊が非武装の女性、子供、老人の88人を虐殺しました。韓国政府は長らく共産匪賊による蛮行だとしてきました。韓国軍は略奪や強姦の為村を襲っていると推測されます。

 2005年に設立された真実・和解のための過去史整理委員会によって2007年6月26日に韓国政府の犯行であったことが明らかとなりました。

朝鮮戦争勃発

 1950年01月に米韓軍事援助相互協定調印されますが、韓国からの軍事支援要求を米軍は 拒否します。 

 6月25日軍事的に優位だった北朝鮮軍が宣戦布告もなく 早朝4時に砲撃を合図とし10万人以上の北朝鮮軍が進軍を開始しました。

 6月27日深夜1時、中央庁において招集された非常国務会議で「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされますが同時に政府の水原への移動も決定されます。午前5時ごろより招集された国防首脳会議において、参謀総長は「政府は南に移動しても、軍はソウルを固守する」との決意を披瀝します。直後に、前線から「今晩持ちこたえることは難しい」という悲観的な状況報告を受け取るのです。

保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)

 6月27日北朝鮮の蜂起の呼びかけに韓国内の左翼系人物が呼応するのを防ぐため、非常国務会議で李承晩は「保道連盟」加盟者や収監中の政治犯や民間人などを処刑するよう命じます。命令は韓国全土で韓国軍や韓国警察によって実施され共産主義者の嫌疑をかけられた民間人が裁判なしで虐殺されました。

 被害者は公式に確認されているもので4934人、被害者は120万人と唱える研究者もいます。後のこの事件の遺族会である全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書には虐殺された被害者を114万人としています。

漢江人道橋爆破事件(かんこうじんどうきょうばくはじけん) 

 6月27日早朝の午前3時ごろ、李承晩は早々にソウルより退避します。午前6時に政府が水原への遷都を発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知りました。避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥ったのです。

 6月28日午前1時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破され、ソウルの最終防衛線は崩壊しました。1時45分、北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報を受け、参謀総長はただちに漢江橋の爆破を命令して、自身は漢江を渡って始興に向かったのです。

 一方、参謀総長の出発直後に陸軍本部に到着した第2師団長の准将、他2名の将校はこの命令の件を聞き、主力部隊が後退命令を受けないままで戦闘を継続中であることから、部隊を後退させたのちに爆破するように進言します。参謀副長もこれに同意し、作戦局長の大佐に橋梁爆破を中止するよう命じます。しかしソウル市内、特に漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱に陥っており、道路の通行は極めて困難であり中止命令は作戦指揮所まで伝達されません。

 主力軍と多くの韓国民を北に残し午前2時30分には、約4000名の避難民が渡っていた漢江人道橋は爆破されました。人道橋に続いて3本の鉄道橋(漢江鉄橋)も爆破され、約500~800名と推定される避難民が犠牲となったと言われています。

 背後を遮断され退路失ったことを知った主力部隊は、雪崩のように潰走をはじめ、韓国民 ともども北朝鮮軍に蹂躙され武器や装備は接収されました。国民を見捨て多くの被害を出した作戦でしたが爆薬の不備から鉄道橋2本の爆破が完全でなく残ったため北朝鮮軍の南進を遅らせる事は出来ませんでした。

在日義勇兵

 在日韓国人の団体である在日本大韓民国民団は在日韓国人の10人に1人にあたる6万人の志願者を予定し、志願兵の募集を行ったのですが、在日韓国人647名、日本人150名の志願者しか集まりません。在日韓国人641名を選抜して韓国に送り込みます。135名が戦死又は行方不明となり 242名が韓国に残留します。日本語が堪能な彼らの一部は後に日本へのテロ工作員となるのです。

アメリカ軍の出動と国連軍の苦戦

 1950年6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告しました。

 6月29日マッカーサーは水原に入り、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめく前線を視察します。韓国軍と派兵を約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻りました。マッカーサーはその後も韓国内には拠点を置かず、東京から専用機で戦線へ出向き、日帰りで戻るという指揮方式を取り続けます。

 マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言しますが、トルーマン大統領の承認は得られません。本国からの回答が届く前に、日本の基地からB-29大型爆撃機を発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲します。結局トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可しました。

 7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、西日本に駐留していたイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。

 準備不足で人員と装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けます。大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められます。

 北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集し人民義勇軍を組織化します。この事はのちに離散家族発生の一因となるのです。

 北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺します。

 8月15日の「解放記念日」には北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜41人が虐殺される戦争犯罪「303高地の虐殺」が起きました。

 北朝鮮軍は再三に渡り大攻勢を繰り広げ、釜山陥落も危惧される情勢となり、李承晩は日本の山口県に6万人規模の亡命政府を建設出来るよう日本側に準備要請を行っていました。

 追い詰められた国連軍は釜山橋頭堡の戦いを徹底抗戦の覚悟で臨み奮戦し釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めたのです。

仁川上陸作戦

 1950年9月15日にマッカーサーの発案でアメリカ軍と少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功します。ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦(スレッジハンマー作戦)でした。国連軍は仁川を確保し、続いてソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功します。38度線から300キロ以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗していた北朝鮮軍は補給路を絶たれ敗走を始めます。

 9月23日には全部隊に北緯38度線以北への後退が命令されますが、戦場離脱に失敗した部隊は混乱が起こり、それまで守勢であった国連軍が一気に攻勢に転じました。この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称しゲリラ活動を続けます。中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、共産主義シンパの活動家などから構成され指揮官は済州島四・三事件の指導者でした。南部軍のゲリラ活動は朝鮮戦争休戦の1953年12月まで続き国連軍を悩ませました。

 9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩始め韓国政府首脳陣もソウルに帰還しました。この時ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺が起きたとされていますが、詳細は不明です。

国連軍の38度線越境

 1950年9月27日にはアメリカでは仁川上陸作戦成功で発言力が増していたマッカーサーの要求や、北朝鮮軍が38度線以北で戦力を立て直し再度の侵略を行う懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンは「ソ連と中国が参戦する発表がなく、朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合」に限り38度線を突破する事を承認するとマッカーサーに伝えていました。

 10月1日、李承晩マッカーサーへの相談もなしに韓国軍に「ただちに北進すべし」という命令をだします。マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると判断していたので韓国軍の独断専行を特に問題とはせずアメリカ軍にも進撃を命じます。10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団も38度線を越えて進撃を開始しました。

 中華人民共和国の首相は

「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする声明を発表しましたが、ワシントンは単なる脅だと無視しました。

 しかし毛沢東はかなり早い時期、7月の段階で戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていたのです。仁川上陸作戦についても、金日成に警告を与えていたのに阻止できず、38度線突破を許す事になった結果に幻滅し朝鮮半島全体がアメリカに掌握されることを恐れたのでしょう。

 国連軍は、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続けます。

 10月10日に韓国軍が軍港である元山市を奪取します。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸します。マッカーサーは西側を第8軍が進撃し東側を第10軍が進撃し朝鮮軍を追い詰めながら中朝国境の鴨緑江で合流し戦争を終わらせる 二方面進撃計画を立てました。

 10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りし、航空機を降り立った際に

「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面でありました。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していました。

 この頃の国連軍は、至る所で相互の支援や地上偵察の連絡すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに中朝国境の鴨緑江を目指していました。また補給港も遠ざかり補給路は狭く険しく曲がりくねっており補給を困難にさせていたのです。しかし東京から来て日帰りの指揮をするマッカーサーは地勢を正しく理解していませんでした。

 10月26日に先行していた韓国陸軍第6師団第7連隊は中朝国境の鴨緑江に達しました。

 祖国統一して戦争終了する夢が見えたのです。