どろ沼の朝鮮戦争、軽い人命

本当の救いは一体何処に

中国人民志願軍参戦

 金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請しますが断られます。当時スターリンは「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていました。ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めたのです。

 10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を受け取ると、既に介入を決めていた毛沢東は参戦を決意します。しかし、アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することにしたのです。

 抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで30万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊を編成します。

 中朝国境付近に集結した中国義勇軍は10月19日から国連軍の空からの偵察を欺くため夜間に山間部を進軍し隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始します。

 この時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力でありました。現状では国連軍を阻止することは困難と判断します。国連軍の西側の第8軍と東側の第10軍の間に間隙がある弱点を狙い、12個師団 のうち9個師団 を西側の第8軍に集中させて弱いとされていた韓国軍3個師団を殲滅し国連軍の弱体化をねらいます。

 10月26日から中国軍と国連軍の小競り合いが起こります中国側の威力偵察(軽攻撃による偵察)でしょう。アメリカは中国義勇軍の規模を3万人程度と思い込み進軍を進めます。

 11月1日に中国軍 が大規模な攻勢を開始、韓国軍第2軍団第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで攻撃され、第6師団は壊滅状態となりました。

 右翼の韓国第2軍団が撃破され第8軍は中国の大規模介入を知り、清川江への後退と防御を命じます。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けました。 清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦に専念します。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止し撤退します。中国軍はその後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し罠を張っていたのです。

マッカーサーの誤算

 マッカーサーは中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他にないと考え、鴨緑江に向けて進撃の再開を命じます。統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可も要請します。トルーマンに宛てて

「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を受けました。

 中国軍は国連軍の動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていました。中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散する事になります、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていました。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていました。

 11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始しますが翌25日には、中国軍の方が総攻撃を開始します。韓国軍第2軍団は前回の被害で中国軍との戦闘を極度に恐れており、最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまいました。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散ったと言われています。韓国軍を撃破し優位に成った中国軍は残りの国連軍に襲い掛かったのです。山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達しました。10倍もの数の中国軍と戦う事となった連隊もありました。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被ったのです。

 11月27日第8軍の甚大な被害に関わらずマッカーサーは第10軍に更なる前進を命じてます。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは

「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想しています。しかし実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていたのです。

アメリカ陸軍史上最大の敗走

 ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。中国兵は我が軍の全滅を狙っている」と報告します。マッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく

「敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察」であったとの明らかな虚偽の説明を行います。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れでした。

 11月28日の夜に東京で主要な司令官を召集し作戦会議が開かれます。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出ませんでしたが翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされます。作戦会議の間にも国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況に陥っていました。

 リッジウェイ副参謀長の提言で第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとし、各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行いました。退却した距離は10日で200キロにもなりましたが、撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れました。受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上りました。しかし人海戦術の中国軍の人的損害はその数倍に及んだ言われています。

最新兵器の投入と国連軍37度線へ撤退

 朝鮮戦争は、ヘリコプターやジェット戦闘機が初めて実戦投入された戦争となりました。

 ヘリコプターは前線で負傷した国連軍の兵員の搬送に従事し活躍します。

 中ソ友好同盟相互援助条約に基づいてソ連により中国に供与されたMiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、F-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていました。アメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機であるF-86Aを投入し対抗しました。初期のMiG-15は欠陥を抱えていたこともあり、F-86Aに圧倒されます。改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いをするようになりました。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し、最終的には優位になりました。

 MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は

 1950年12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回します。

 37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近の南部軍 ゲリラ討伐を任じられます。

 12月23日、第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡する事故が起きますマッカーサーは後任として統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を推薦し承認されます。自信を失っていたマッカーサーは前線の指揮をリッジウェイに託します。

 12月26日にリッジウェイは朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させますが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけでした。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じます。

国民防衛軍事件(こくみんぼうえいぐんじけん)

 1950年12月21日 45%喪失した韓国軍を補充するため李承晩は国民防衛軍法を発効すると「韓国軍人・警察官・公務員・学生に該当しない満年齢17歳以上40歳未満の男子」約40万人を動員し10万の韓国軍人と合わせ50万の将兵達を51個の教育連隊に分け国民防衛軍を編成しました。しかし早急に編成された軍隊であるため予算不足や指揮統制が未熟などの問題を抱えていました。

 1951年1月4日に中朝軍にソウルを再度奪回された韓国軍は前線の後退作戦(1.4後退)を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになります。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のための軍事物資や兵糧を不正に処分・着服していました。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者や凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となったのです。

 この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置されました。人員数を水増しにより食料品費の計上額を20億ウォン水増し、そこから国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領されたのです。着服金の一部が李承晩大統領の政治資金として使われたことも判明し、李始栄副大統領と、事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任しました。

特殊慰安隊の創設

 1950年12月に韓国政府は主に国連軍から外貨を稼ぐ目的で韓国軍に慰安婦部隊を創設します。違法の国家運営売春です。売春宿形式の固定式と、ドラム缶に一人ずつ詰めて戦線に「第五補給品」の名目で送り夜になと営業する移動式の形式がありました。ドラム缶に詰められ軍と共に動く慰安婦は「従軍慰安婦」と呼ばれました。また陸軍にあった「特殊挺身隊」という組織に強制連行の少女が連れ込まれ慰安婦にされたと言う話もあります。

 「特殊慰安隊」の別名は「韓国軍慰安婦」「第五補給品」「従軍慰安婦」「挺身隊」です。 総数は不明ですが休戦時に30万人の娼婦がいたことから8万~20万人が売春を強要される酷い被害をうけていたようです。どこかで聞いたことありませんか?

 良ければ本編の「情報戦の始まり」もお読みください

江華良民虐殺事件(こうかりょうみんぎゃくさつじけん)

 1951年1月6日から1月9日に「1.4後退」で北朝鮮による江華島が再占領される可能性を感じた韓国政府 は保導連盟事件ですでに140人の島民が処刑されていたのに韓国軍を使って生き残った島民212人~1,300人を虐殺します。犠牲者は全員非武装の民間人でした。

居昌・山清咸陽虐殺事件 

 韓国第11師団は太白山脈や智異山付近の南部軍 ゲリラ討伐を任じられます。 ゲリラ討伐のために堅壁清野作戦を実施します。堅壁清野作戦とは

「必ず確保すべき戦略拠点は壁を築くように堅固に確保し、やむを得ず放棄する地域は人員と物資を清掃し、敵が留まることができないよう野原にする」という内容でした。

 1951年2月7日に韓国陸軍第11師団第9連隊第3大隊 はゲリラに関わっている嫌疑で南部軍 山清郡今西面芳谷里佳峴村に進撃し家屋を焼き払い。金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃撃を加え虐殺します。

 さらに約2キロ離れた芳谷村の住民212名にも銃撃を加え、13時半に続けて咸陽郡休川面棟江里で60名を虐殺しました。さらに花渓里、自恵里と咸陽郡柳林面の西州里・蓀谷里・池谷村で講演を開催するという口実で住民を西州里トンチョンガン砂礫地に集めて16時半頃、軍警察の家族除く住民310名を虐殺しました。全体の犠牲は12の村々の住民計705名になります。 

 2月9日から2月11日にかけて韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で第3大隊は居昌郡から一人残らず共匪パルチザンを殲滅するためとして住民719人(15歳以上334人と15歳未満385人)を虐殺しました。韓国軍は、韓国警察の家族までも除外することなく虐殺しました。

  作戦好きの知将リッジウェイ中将

 リッジウェイ中将の戦略は「確実に敵戦力を掌握し面で押すことで設定したラインへ押し込む」というものです。威力偵察で敵の場所と戦力を把握し北へ押し込んでいきます。強力な抵抗を受けた場合即座に援護を向かわせ中朝軍を撤退させます。

 1951年1月25日から始まったサンダーボルト作戦は、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復しました。洪川付近に残った中国軍に対しラウンドアップ作戦を発動させ集中的に攻撃することで、2月18日には中国軍を後退させます。中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、北進して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動し、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパ―作戦を実行します。

 3月7日、アメリカの第9軍団と第10軍団、韓国の第1軍団と第3軍団が北進を開始しました。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回しました。

 3月14日には韓国第1師団が漢江を渡河し再びソウルを奪回したのです。

 この時は韓国の首脳陣は帰還せず臨時首都は釜山市でした。戦争は多くの命を無駄に奪いほぼ終結します。

膠着状態とマッカーサーの解任


 中国軍は参戦当初は優勢でしたが、この頃には度重なる戦闘で経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍りはじめました。

 それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回しましたが、戦況は38度線付近で膠着状態となります。

 中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築して抵抗します。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕しました。

 1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていました。これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を勝手に発表した後に38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破します。 

 マッカーサーは、満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事、さらに中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入や原子爆弾の使用などのを提言します。戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言でした。

 マッカーサーの暴走により戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にしては第三次世界大戦に発展する可能性もあります。

 4月11日にトルーマン大統領はマッカーサーをすべての軍の地位から解任します。後任としてアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。

 韓国軍の強化

 1951年4月9日から国連軍は再びリッジウェイ大将戦略で北進をはじめますが抵抗も激しく5月末には戦況が膠着し大規模な機動戦が展開されることはないと判断されます。第8軍と韓国陸軍本部は協議して韓国軍の再訓練に取り掛かかります。

 1951年7月、野戦訓練団が束草の南側に創設され、アメリカ軍から教官、助教あわせて150人が派遣され各個教練、小銃射撃、分隊訓練の基本から師団司令部の幕僚勤務まで、あらゆる訓練をやり直しました。1952年末までに全10個師団が訓練を受けたのです。既存部隊の再訓練と並行して各兵科の専門教育の充実も計られました。

 1951年12月には大邱に幕僚学校が開設されて参謀の育成も始まりました。

 1952年1月に正規4年制の陸軍士官学校が鎮海で開校され4月から教育を始めました。

 戦線では再訓練の効果が現れ、東部戦闘地区と中央東側戦闘地区における国連軍の攻撃作戦の多くは、ほとんど韓国軍の部隊で実行されるようになりました。

 将来予想される休戦線の長さ、韓国の国力、期待できる軍事援助などを考慮し、20個師団が必要と算定し、1952年11月から新師団の編成が始まりました。1952年末の時点で前線部隊の4分の3近くを韓国軍が占めるようになり、前線に配備された16個師団のうち、11個師団は韓国軍、3個師団は米陸軍、残りの2個師団はそれぞれ米海兵隊と英連邦軍でありました。休戦後の1953年11月には20個師団体制が確立したのです。