南京戦の真相

 南京陥落時、国民党軍の総司令は降伏せずに自分だけ逃げだしました。国民党軍は命令系統が混乱・錯綜して、南京城内で掠奪・放火・強姦が行われます。逃亡防止を武力行使で命じられた兵士と撤退しようとする兵士が同士討ちを始めました。兵士の多くが垂直の城壁を急造ロープで降りようとして墜死したのです。

 南京陥落時の人口は約20万人です。ここで日本軍が民間人を含む30~34万人を虐殺など出来るはずは無いのです。なぜこんなデタラメな捏造歴史が世界的に広がったのでしょうか?

南京戦の真相を検証します。


敗走千里

 2017年6月に一冊の本が復刻されました。日本に留学経験があり、南京戦に中国国民党軍の兵士として徴兵された陳登元氏が執筆した『敗走千里』です。1938年(昭和13年)に日本で刊行されるや、またたく間に100万部を超えるベストセラーとなりますが、1946年にGHQは戦前・戦中に出版された7,700点を超える刊行物を「宣伝用刊行物」に指定して、没収・廃棄しました。この本も没収・廃棄されたのです。南京戦の真相を描くこの本の何をGHQは恐れたのでしょう。この本には、南京戦の悲惨さだけでなくて、南京戦で中国国民党軍が行った残虐行為も記述されていたのです。

 共産主義国の兵士はまともに報酬が得られません。その代わりに戦地での掠奪・強姦が容認されていました。国民党軍の兵は日常的に民間人を強姦します。民間人から掠奪することで民間人に変装するための便衣も用意していました。軍の兵士の背後には『督戦隊』と呼ばれる自軍の監視専門の部隊がいて、部隊の逃亡や命令なき退却を阻止します。南京戦では日本軍から逃げ帰ってくる兵士を戦線に戻そうと機関銃で攻撃するのですが、兵士の敗走は止まりません。次々と倒れる死体を乗り越えてくる中国兵を督戦隊が容赦なく殺害したことで南京城外に中国兵の「死体の山」ができたのです。敗走千里の大まかな内容です。

 初期のGHQは共産主義を容認する容共でした。共産シンパも多く在籍していたのです。WGIP以外にも『公職追放令』で21万人もの保守思想者を公職から追放して、労働組合の設立の促進を行います。日本で共産主義を布教して広めたかったのでしょう。そのために『極東国際軍事裁判』では、中国国民党軍の行った残虐行為を日本軍に付け替えて被害者を水増しすることで、日本軍が民間人を含む20万人を虐殺したとする南京大虐殺を捏造します。そうすることで日本の保守思想を貶めて共産主義の残虐行為を隠蔽することで美化したのです。南京戦の真相を描いたこの本は情報操作には邪魔だったのでしょう。


中国の抗日運動

『コミンテルン』による中国の抗日運動指導は1925年の『五・三〇事件』に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備でした。1935年7月25日から開催された第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言されます。同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張したのです。

 コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表します。1935年11月に起きた『中山水兵射殺事件』1936年には8月24日に『成都事件』、9月3日に『北海事件』、9月19日に『漢口邦人巡査射殺事件』、9月23日には『上海日本人水兵狙撃事件』などの抗日運動を続発させて日本を挑発しました。

 1936年12月に起きた『西安事件』におけるコミンテルンの判断も蔣介石(ショウ・カイセキ)を殺害せずに、人民戦線に引き込むことが目的でした。西安事件翌月の1937年1月6日に中華民国南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表します。1937年7月7日に『盧溝橋事件』が起こります。北京西南方向の盧溝橋で日本軍と中国国民党軍が軍事衝突したのです。

 7月29日には『通州事件』が起こります。中国の通州では日本人守備隊の主力は北京制圧に出動していました。先に日本軍が陥落させた北京では、日本軍による略奪・強姦・放火・虐殺は起きていません。朝日新聞の「三光政策」が捏造である証拠です。守備隊が留守になった日本人居留地に、共産党の意向を受けた中国人保安隊が急襲をかけて留守番の守備隊をせん滅した後で、女性や子供を含む日本人居留民250人以上を時間をかけて拷問した上で、猟奇的に殺害したのです。日本人の怒りを誘うために共産党が起こした惨劇です。8月13日 国民党軍が攻撃を開始することで『第二次上海事変』が始まります。8月14日には中国空軍による上海への無差別攻撃が実施され、日本軍陣地だけでなく租界地などの歓楽街にも被害が出ました。これを受けて日本は8月15日に「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲する」と声明を出します。

 日本軍と国民党軍を戦わす事で国民党を弱体化させるコミンテルンの策略に見事にはまってしまったのです。日本は中国に対し「速戦速決戦略」を採用しました。蔣介石も8月15日に対日抗戦総動員令を発令し、自らが陸海軍総司令官について四つの戦区に分けて全面戦争体制を整えました。蔣介石は華北は補給維持が困難であるとして増援を止めます。しかし華北を日本軍が制圧すると武漢地区で中国が東西に分断される事になります。そこで上海に主力を集中することで「持久消耗戦略」をとり日本軍の消耗を誘い、そののちに南京市を含む揚子江流域都市での決戦をすると計画しました。

 上海戦で蒋介石は住民を盾にする戦術を採り、住民を巻き添えにしたくない日本軍は至る所で思わぬ抵抗を受けて20キロを進むのに1か月余を要したのです。9月までの日本軍第3・第11師団だけで死傷者は12,388名にのぼりました。第9師団は11月の蘇州河渡河までに12,360名の死傷者を出したのです。それでも11月5日に第10軍を杭州湾に、第16師団は白茆口に上陸させることで、戦況は一挙に好転しました。11月7日に上海派遣軍と第10軍を併せて中支那方面軍として再編成されます。


南京占領

 国民党軍の主力は橋梁や道路を破壊しながら揚子江流域都市に撤退していきました。日本軍の参謀本部作戦課は作戦地域を上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線以東に制限していたのです。武藤章参謀副長らは南京追撃を主張しました。11月15日に第10軍は「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき」と積極案を出して独断で進撃を開始しました。松井石根中支那方面軍もこれを追認したのです。参謀本部には『トラウトマン工作』など政治的解決を優先する意見もありましたが、11月24日に南京攻略を容認して蘇州-嘉興線以東の制限を撤廃します。

 上海派遣軍追撃隊は、常州、丹陽、金壇に前身拠点を造り、主力は無錫〜湖州線より東部で準備するよう命じたのです。10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114師団一部は宜興・漂陽へ、18師団追撃隊および国崎支隊は広徳に進出します。主力は後方地区に集結しました。最前線の部隊は破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃をつづけたのです。11月25日 独立軽装甲車第二中隊は激戦の末に湖州に入城しましたが、市内はすでに掠奪されていました。16師団歩兵19旅団は無錫を突破したが、国民党軍による掠奪は凄まじいものであったと犬飼総一朗同旅団司令部通信班長は述べています。

 11月26日 唐生智(トウ・セイチ)が南京守衛部隊司令長官(防衛司令長官)に任命され、編成師団13個と連隊15個計15万の兵力を指揮下に置きました。11月27日には蔣介石は南京城防工事を巡視します。11月29日 16師団歩兵19旅団は常州へ進出しますが、ここでも国民党軍による徹底的な掠奪が行われていました。12月1日 大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、大陸命第8号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し南京攻略を命令しました。12月3日 日本の上海派遣軍と第10軍計10万人余は、飛行機、戦車と海軍艦隊の援護で、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施したのです。南京市内では水道が故障して数日前から下関には常に3万〜5万の難民と退却軍であふれた状態でした。

 12月4日 松井方面軍司令官は、南京郊外の敵陣地奪取を決定します。12月5日 二ヶ月後にはソ連が中国支援のために軍を派遣することを決定したと中国側に伝えました。南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、安全区から中国兵が引き上げるなら攻撃しないとの日本からの回答を得たので、マイナー・シール・ベイツ、シュペアリングと唐司令長官に安全区からの中国兵撤退を要請しますが「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」と唐は回答したのです。

 ラーベは日記で「そんなばかなことがあるか」と唐将軍への不満を日記に記し、またドイツ大使館書記官ローゼンも国民党軍が安全区のなかに隠れていることに怒っていると書いています。12月6日 句容が陥落します。そこから日本軍は三方向から進撃し、句容から孟塘を通過し、北の部隊が東流鎮を攻撃した。深水から別部隊が秣陵関を攻撃します。天王寺からの主力縦隊は淳化鎮へと進撃しました。日本軍が浦口を空襲し300余名の死傷者がでました。


南京包囲戦 

 12月7日 夜明け直前、総統蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出します。またファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出しました。蒋介石は情報戦で、日本軍の残虐行為を捏造してアメリカやイギリス、ソ連などを日中戦争に巻き込むという政略も採用したのです。国民党軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難しました。

 国民党軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施しました。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道しています。

 中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入します。食料難から暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺しました。漢奸狩りで嫌疑をかけられていた市民、約2,000名が12月初旬には連日殺害されたのです。国民党軍軍事委員會第一軍令部徐永昌は「下関碼頭一帯で渡河待機避難民は3日も待っているが、まだ渡れぬ者がある」と日記に書いています。

 中支那方面軍司令官松井石根は南京城攻略要領を示達し、敵兵が抵抗する場合は攻撃し、掃蕩戦を行うことのほか、掠奪などの不法行為が、特に外国人の大使館や安全区(中立地帯)において絶対にないように各部隊に命じ、違反した者は厳罰に処すると通達します。松井は作成にあたって、国際法顧問斎藤良衛博士の意見を取り入れるように塚田攻参謀に命じ、情報参謀中山寧人が各国総領事を訪ねて改めて位置を確認し、これを各部隊に朱書きして手交したのです。

「南京城の攻略および入城に関する注意事項」

1.日本軍が外国の首都に入城するのは有史以來の盛事であり、世界が注目する大事件であるため、正々堂々将來の模範たるべき心構えをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為などは絶対に無いように。

2.部隊の軍紀風紀を厳粛にし、中国軍民をして日本軍の威武に敬仰帰服せしめ、いやしくも名誉を毀損するような行為が絶対に無いように。

3.外国権益、特に外交機関には絶対に接近しないこと。中立地帯には必要のないもの立入を禁止する。所要の地点に歩哨を配置する。 中山陵、革命志士の墓、明孝陵に立入を禁止する。

4.入城した部隊は選抜し、城内外の外国権益の位置を撤退して把握し、絶対に過誤のないように歩哨を配置する。

5.掠奪行為、不注意といえども失火したものは厳罰に処す。憲兵を入城させ不法行為を摘発する。


降伏勧告

 12月8日(水曜)日本軍は烏龍山、幕府山、紫禁山、雨花台に迫り、南京城を包囲しました。上海派遣軍16師団は湯水鎮・淳化鎮に進出、天谷支隊(第11師団の歩兵第10旅団を基幹とする)は鎮江砲台を占領します。国民党軍は鎮江から退却する時も焼き払いを行います。第9師団は淳化鎮を突破し、夜間追撃で23時頃には馬鞍山陣地を突破して第6師団は114師団左翼に進出しました。ダーディン記者は、「中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって焼かれた」と報道しました。

 12月9日 (木曜)未明に114師団歩兵127旅団は将軍山攻撃を開始して突破します。包囲された約300名の中国兵は山頂に追い詰められ殲滅されました。夜明け頃には第9師団は光華門に到達します。城内に押し戻された中国兵は、激しく抵抗しますが、大砲、空爆、榴散弾の攻撃を受けました。16師団は下麒麟門、蒼波門へ進出します。夕方、日本軍は飛行機で南京城内にビラを撒き、中国国民党軍に対し降伏勧告を行いました。

「日本軍は江南を席巻した。南京城はすでに包囲された。今後の交戦は百害あって一利なし。 ・江寧の地は旧都にして中華民国の首都である。明の孝陵、中山陵など古跡名所が多くあり東亜文化の精髄の感がある。 ・日本軍は抵抗する者に対しては寛恕しないが、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さない。 ・文化財は保護する熱意がある。 ・しかし、交戦を継続すれば、南京は戦禍を免れず、千載の文化は灰に帰す。 ・貴軍に勧告する。南京城を平和裡に開放せよ。 ・回答は10日正午中山路句容道上の歩哨線で受領する。 ・もし貴軍が責任者を派遣するときは、必要の協定をむすぶ。 ・回答がない場合は、日本軍はやむをえず南京城攻略を開始する。 ・大日本陸軍総司令官 松井石根」- 投降勧告(原文中国語、現代日本語による抄訳)

 午後、国民党軍は南京城内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼったとヴォートリン日記に記載されています。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃しました。焼け出された人が城内に避難しました。ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道しました。南京市内は北部と東部が火に囲まれたのです。夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領しますが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火して炎の中で猛反撃に遭います。アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船しました。

 唐生智は「各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、司令部が責任を持って保有する。第七十八軍長の宋希濂は長江沿岸警備を担当し、他の部隊将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。この命令に背く者があれば即刻逮捕し厳罰に処する。」との命令を下しました。12月10日(金曜)投降勧告の回答期限の正午を過ぎても中国軍からの反応がなかったので、午後1時、日本軍は総攻撃を開始しました。第9師団左翼隊は光華門、雨花台東端を攻撃します。16師団は紫禁山を攻撃、歩兵9聯隊が桂林石房を占領すると前方の五重塔付近より追撃砲の射撃を受けたため、観測所である五重塔攻撃を進言しますが、大隊長は「歴史的文化遺産だから破壊してはいけない」と許可しませんでした。歩兵33聯隊第三大隊は紫禁山東端の227・5高地を占領し、第二大隊は16時382.5高地を占領します。第10軍の114師団、第6師団は雨花台、将軍山正面を攻撃します。午後5時30分、日本軍は光華門を確保しました。

 唐生智司令官は午後7時、各部隊に死守を下命し、陣地を放棄したものは厳罰に処するとし、長江の渡江も禁止し、離脱兵が制止をきかずに渡江しようとした場合は武力で阻止せよと命じます。夜に第11中隊(94名)が雨花台82高地を夜襲、敵陣地を占領したが、中国軍に包囲され、手榴弾や砲弾を雨注し70名が戦死しますが、24名でこれを撃退します。12月11日 (土曜) 唐生智司令官は蔣介石から撤退の指示を受けます。12月12日(日曜)12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領します。

 日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始して中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かいました。中国兵は軍服を脱ぎ捨て平服に着替えたのです。それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中に多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報道しています。

 20時に唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令しますが、自分は長江左岸にボートで逃走します。この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていませんでした。退却命令の不徹底から、狭隘な通路に殺到した中国兵達と、潰走兵の武力阻止を命令された部隊が衝突して、双方が発砲して大パニックとなります。銃撃の死傷者と後方からの圧迫で多数の兵士が踏み潰され、築かれた高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えた兵士の多くが垂直の城壁を急造ロープで降りようとして墜死しました。

 別の中国兵は挹江門、下関一帯に船を求めて押し寄せ、殺到しました。国民党軍は揚子江の無断渡河を厳禁していて、違反者は武力で制圧する命令でしたので、同士討ちが起こりました。北部の長江へつながる挹江門には「督戦隊」が置かれて撤退する中国兵を虐殺します。『挹江門事件』です。撤退作戦の不手際により空前未曾有の惨劇が展開され、無数の中国国民党軍の兵士が落命したのです。

 米国宣教師のミニー・ヴォートリンは「中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引き渡さなかったのだろうか」と日記に綴っています。ダーディン記者は「将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが、ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報道しました。


南京陥落

 12月13日 午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領しますが同隊は全員戦死します。午前8時30分に16師団戦車第一大隊は中山門に到着しました。13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領します。揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領して敵の退路を遮断しました。午前9時頃、南京城内の新路口5番の民家に賊が押し入り、生存者で当時7〜8歳の夏淑琴の祖父、祖母、五女(0歳)を殺害し、夏夫人(母)と長女(16歳)次女(14歳)を強姦後に殺害した新路口事件が発生します。ジョン・マギーはこの賊を日本兵として東京裁判で供述しますが、日本軍突入前の出来事です。日本軍が南京を占領したのはこの日の夕方です。

 ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報道しています。午後7時、2〜300名の国民党軍兵が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃しますが撃退されます。ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をします。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1,000人以上となったと報道しています。

 12月14日 午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777名を上元門外の学校に収容します。南京城内の敗残兵の掃蕩を開始します16日まで続けました。掃蕩にあたっては次のような注意がありました。(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令され、通訳をつけて問題を起さないように

 当時の様子を朝日新聞は次のように伝えています。「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(1937年12月26日東京朝日新聞)

 この日に城内の第三国人を保護するため、日本の外交官、福田 篤泰も入城しました。早速届いた第三国人の手紙には謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」とあり、南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補は後に、こう証言しています。「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)

 昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊がいました。彼らは日本軍に包囲されている現状も知らずに戦っていたのです。午後2時頃堯化門において約7000〜7200名の中国兵が降伏してきたため、午後6時に歩兵第38連隊一中隊護衛をつけ仙鶴門鎮北側に集め、17,8日頃に中央刑務所(第一監獄所)に護送しました。12月15日 第13師団山田支隊が幕府山砲台付近で上元門外の学校に収容した捕虜から非戦闘員を釈放して、収容者を約8千名余としますが、夕飯の準備中に火災が発生して約半数が逃亡します。ジョン・ラーベは、日本軍が安全区に隠れていた中国兵1,300人を捕えたので、射殺されると予想し、スマイスと日本大使館補福田篤泰に救援を依頼します。またラーベは、国民党軍が済南で日本人捕虜2,000人を射殺したとも日記に書いています。日本軍がすでに占領統治を開始していた北京では、天安門広場には5万人の北京市民が集まり、日の丸と五色旗を振って南京陥落を祝っている姿が写真に残っています。

 12月16日 日本軍司令部は、軍服を捨て武器を隠し平服を着た中国兵25,000人が市内にいると発表しました。12月17日 日本の陸海軍による入城式が挙行されます。南京の避難民は「日本軍万歳」と叫んでいました。中支那方面軍司令部が南京に移動しました。夜に第13師団山田旅団の残留捕虜(約4,000人)を揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、対岸から機関銃の掃射を受けます。捕虜はパニックを起こして日本軍警戒兵を襲撃したために射撃を加えます。捕虜約1,000名が射殺されて他は逃亡しました。日本軍側も将校以下7名が戦死したのです。


自治委員会の設立

 12月23日 陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復しました。南京市内では日本軍司令官によって戦闘の目的は軍閥にあって一般の中国人ではないと布告されたのです。12月24日 第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始されます。翌年1月5日まで続けられました。難民所の金陵大学テニスコートから200〜300人が五台山と漢西門外に連れ出され殺害されました。午前10時、ミニー・ヴォートリンに日本将校が娼婦100人を募集することを要請して、日本軍慰安所設置への理解を求めます。

 12月28日 安全区の外国大使館に隠れていた中国軍将校23名、下士官54名、兵1,498名が摘発されました。国民党軍指揮官の王信労は民間人を装い、国際避難民の第4地区を指揮していました。88師副師長馬 跑香中将は安全区内で反日攪乱行為の活動を続けていました。掠奪、脅迫、レイプを繰り返していた黄安大尉も発見されます。さらに大使館に隣接する防空壕からは、チェコ式機関銃21挺(弾丸60発)、機関銃3挺、水冷式重機関銃10挺(弾丸3,000発)、小銃50挺(弾丸42,000)、手榴弾7,000個、小型野砲1台(重迫撃砲弾2,000個、砲弾500個)などの兵器も発見されました。

 12月31日南京城内の電気、水道が復旧します。1938年1月1日 南京自治委員会の発会式が挙行された。南京難民区に避難していた市民も日の丸と五色旗を振って祝い、式場には3万人の参加者がつめかけました。新政権の出現を祝い、国民党政府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す以下の宣言が発表されたのです。

南京自治委員会発会宣言

一、国民党の一党専政を廃止し民衆を基礎とする政治を実行す

二、各種親日団体と合作し日支提携の実を挙げもつて東洋平和の確立を期す

三、防共政策を実行し抗日、排日思想を絶対に排除し欧米依存の観念を矯正す

四、産業を振興し民衆の福祉を増進す

五、広く人材を登用し民衆自治の徹底を期す

 同日12時頃、南京のソビエト大使館が放火されました。日本兵の立ち入りを制限していた場所です。1月5日に逮捕した中国人の取調べにより敗残兵によるものと判明したと日本当局は発表してますが、東京裁判では許伝音が日本兵が放火するのを目撃したと証言しています。1938年1月3日 南京避難安全区に国民党軍敗残将兵たちが潜み、金陵女子大学内に小銃6丁、ピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁の武器を隠し持っていたことが発覚します。将校たちは民間人を装い難民キャンプで2番目の地位につき、安全区内で掠奪や少女をレイプし、翌日には日本兵の仕業であると報告していたことを自白したのです。

 1月4日 閑院宮陸軍参謀総長は、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」と通達しました。飯沼守上海派遣軍参謀課長は「憲兵は南京難民区区域或いは外国大使館に潜伏しある不逞徒を捕らえつつあり。八八師副師長など主なる者なり」と日記に記録したのです。1月11日 大本営における政府首脳による御前会議は支那事変(日中戦争)処理根本方針を決定。それまでの和平を打ち切って、国民政府が日本の提示した条件をのまない場合は、以後これを対手にせずとし、日本に有利な新南京政権の成立を援助する。

 1月15日 大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は政府の和平交渉打切り案に激しく反対しました。しかし、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべきとの意見により、中国との和平交渉打切りを決定します。2月7日 午後1時30分、慰霊祭。松井司令官は各隊長に対して、占領後50日間の「幾多の忌はしき事件」は戦没した将士の功を半減するもので、日本軍の威信を損なうような報道が二度と起こらぬようにと訓示しました。松井司令官は「占領後ノ軍ノ不始末ト其後地方自治、政権工作等ノ進捗セサルニ起因スル」悲哀におそわれ、責任感が太く迫ったと日記に書いています。

 2月16日 日本軍の名を騙って掠奪暴行をしていた中国人集団11人が憲兵隊の山本政雄軍曹らによって逮捕されました。主犯格は呉堯邦(28歳)でソウルで洋服仕立を営み、日本語が得意でした。呉らは日本軍入城後、通訳の腕章を偽造して強盗暴行を繰り返していました。3月28日 中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に南京国民政府が成立します。4月には南京中山路に四階建ての大丸百貨店が開店してオートバイや自転車なども取り扱いました。1940年には維新政府は汪兆銘の南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、1945年まで首都を南京に置いたのです。


戦後の情報戦

 終戦4ヵ月後の1945年12月8日から、GHQ(占領軍総司令部)はWGIPの一環として、「太平洋戦争史」の掲載を新聞各紙に命じました。「このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。」(1945年12月8日朝日新聞)NHKラジオも利用されます。「真相はこうだ」が放送されました。南京事件のところでは「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」のセリフが繰り返し放送されます。NHKに抗議が殺到しました。このため放送は10回で終わり、今度は質問を受けて答えるという形式をとった「真相箱」 が登場しました。

 GHQは日本軍の悪逆な行為を言い立てます。放送に対する活字による反論等は検閲によってカットします。反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は日本人洗脳工作といえるものでした。1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた南京軍事法廷で、旧日本軍による南京での被害を埋葬者15万5千人、それ以外の死者15万として判決では「被害者総数は30万人以上に達する」と認定されます。被害者30万人以上の原点です。

 東京裁判では中国国民党政府は43万人犠牲を主張しますが根拠がありません、推定被害を加算していき被害者数11万9千人と言う数字がでてきます。国民党政府は資料として南京軍事法廷と同じ埋葬隊が南京とその付近の15万5千体を埋葬したとする資料を出します。しかし資料ある「紅卍字会」(こうまんじかい)4万3,123体は活動の詳細な記録があり信用できるのですが、より短い期間で11万2,266体を埋葬したとされる崇善堂」(すうぜんどう)は、ほとんど活動の記録がなかったのです。

 南京戦の被害者の殆どが陥落前に殺害されています。埋葬者と被害者はほぼ同数で間違いないでしょう。崇善堂の埋葬者は約1万人と推測できますので、南京戦の被害者総数は5万数千人と推測できます。しかし、1948年1月 東京裁判は南京大虐殺の被害を20万人以上と断じます。責任者として松井 石根大将に死刑判決を言い渡しました。1952年日本の主権が回復すると南京大虐殺は全く報じられなくなります。WGIP は失敗でした。時代が近すぎて真相を知る当事者が多く歴史捏造による洗脳は難しかったのでしょう、南京大虐殺は一時忘れ去られます。

 中国山西省では日本降伏後も国民党軍と共産党の八路軍とが戦闘状態にありました。蒋介石は日本人居留民を帰国させる事と引き換えに日本軍部隊に中国残留を要請します。受け入れた日本軍は国民党軍とともに八路軍と戦ったのですが、ソ連の武器支援を受けた八路軍の勝利に終わり日本軍部隊は投降します。第一軍の関係者ら140人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容されたのでした。中国内戦に勝利した毛沢東(モウ・タクトウ)は1950年7月 中ソ友好同盟相互援助条約で六十万人といわれる日本軍のソ連抑留者から969人を選別して中国に移送します。撫順(ぶじゆん)戦犯管理所に収容されました。撫順組と太原組を合わせた1109人が中国戦犯といわれる人たちでした。

 中国共産党政府の設置した戦犯管理所では、シベリア抑留時代とは異なり栄養豊富な食事、病人や怪我人への手厚い看護、衛生的・文化的生活が戦犯容疑者たちに保障されました。一方、戦争中「日本による数多くの非人道的な犯罪行為を目にし、加担し、実行した」とされた戦犯容疑者たちは、それまでの自分たちの行為を「反省」し罪を「自主的に」告白する「認罪運動」を長期間にわたって課されます。時間をかけて日本軍残虐行為の証言者や日記を偽造していたのです。

 1956年4月「中国に侵略した日本軍の処分に関する全国人民代表大会常務委員会の決定」に則り、大半の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受けます。1956年6月から7月の間に山西省太原市と遼寧省瀋陽市で開かれた特別軍事法廷で重要戦犯容疑者の45人の裁判も行われました。1957年、中国共産党により「罪」を許され帰国した元戦犯容疑者たちの一部は『中国帰還者連絡会』(中帰連)を創立し、「反戦平和運動」「日中友好運動」を展開しました。彼らの記録は中国に書き残してきた「供述書」「手記」帰国後の「証言」の3つに大別できます。いずれも常識では考えられないほどの異常な、旧日本兵の残虐行為を告白したのです。「手記」は何冊もの本になります。また彼らの口から語られた帰国後の「証言」は、多くのメディアが取り上げ、多くの日本人左派学者の論文や著作に引用されました。

 1957年に毛沢東は多くの知識人を粛清して反対を押し切り『大躍進政策』を推し進めますが産業・インフラ・環境の大破壊をひきおこして、1,000万人以上の餓死者を出して失権します。1966年に毛沢東は政敵を倒して復権する為に『文化大革命』と言う学生による官製暴動を起こします。1970年には中国内で続く内戦状態にともない経済活動が停滞して、疲弊はピークに達し騒乱は次第に沈静化していきます。中国共産党の日本社会で南京大虐殺を歴史捏造する情報戦はこの年まで延期になりました。しかしこのことは情報戦には有利に働いたのです。当時の実情を知る人が少なくなっていたからです。学生運動が先鋭化することで下火になり、WGIPを引き継いで共産主義の布教活動を続ける報道機関や教育界も活動の方向性を見失っているときでした。

 1970年3〜4月、親中派の国会議員と共に朝日新聞の広岡 社長が中国に招かれます。中国共産党に1ヶ月間も歓待をうけ帰国します。10月 広岡 社長は新聞協会主催研究会で「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言します。1971年8〜12月 朝日新聞は現地ルポと称する「中国の旅」を連載報道します。中国共産党が偽造して用意した資料を事実として報道することで「南京大虐殺」をはじめとする日本人の残虐行為で中国が被害を受けたとする歴史捏造を再開したのです。恐ろしいことに、フェイクニュースを訂正する義務のある他の報道機関や教育界の研究者の多くも歴史捏造に加担しました。朝日新聞の連載報道に合わせて、TV放送等で中帰連の会員が残虐行為を告白する事で日本軍による「南京大虐殺」が捏造されたのです。


南京戦の真相

 朝日新聞が1971年に連載報道した「中国の旅」より「南京事件」の一部を引用します。

日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した。川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった。どこへ行っても空気は死臭で充満していました。」

「虐殺は、大規模なものから1人〜2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、約30万人が殺された。」

「日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた。このことについては、多くの写真が残っている。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・。5万人もなだれこんだ日本軍。そのすべてではむろんないにせよ、かなりの兵隊が加わった強姦事件の被害者は何万人におよび、1人が1度に30数回もつづけて強姦された例があるので、件数は何十万件とも見当がつかない。10歳前後の童女から70歳以上の老女まで、すべて強姦の対象なのであった。」

「ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。」

「南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約30万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知る由もない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないと見る研究者もいる。洞 富雄 著『近代戦史の謎』の分析は、30万人、あるいは34万人説を事実に近いとみている。」

 戦後の新聞ブームで新聞が報道機関として絶大な信頼を得ていて、一般人の情報収集が制限されていた時代だとしても、良くこれだけデタラメな捏造報道を行ったものです。南京戦で民間人の虐殺・強姦・放火が行われたのは、日本軍突入以前の12月上旬であり、総司令が降伏もせず逃げ出したことで、国民党軍兵士間で壮絶な同士討ちも起こっています。これが南京大虐殺の真相です。日本軍は南京占領後に電気・水道のインフラを回復して、食料の供出、ワクチンの接種、自治委員会の設立、便衣兵の犯罪摘発、日本軍慰安所の設置、など治安回復に努めています。 

 南京戦に従軍した記者は朝日新聞約80人、東京日日(現・毎日)新聞約70人、同盟通信社約50人など、総計200人超とみられ、また「アサヒグラフ」などの写真報道も盛んに行われています。これらの報道では日本軍の残虐行為を全くと言っていいほど扱っていません。南京城を陥落させるまでの数日間は城外での激戦が続きますが、入城後に市民を虐殺したという報道はほとんどないのです。当時の各新聞やアサヒグラフ、支那事変画報(朝日版、毎日版)などが報道している内容は、平和な日常が返ってきたという印象の記事や写真ばかりです。

 朝日新聞が報道した「南京事件」は中国共産党が用意したものですが、実はモデルとなる事件があるのです。1927年3月24日 中国国民党の北伐軍が南京に入城しました。当初は平和裏に入城していましたが、まもなく、「華俄一家」(「ソ連と中国は一家である」の意)、「日英帝国主義打倒」を連呼して反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が日本を含む外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、当時の30数名いた日本人婦女は少女にいたるまで陵辱されて、金目の物を略奪される『南京事件』が起きています。それと1937年7月29日の『通州事件』を参考に日本軍の残虐行為を偽造したと推測できます。残酷な殺し方が出てきますが、日本人にはなじめない方法ばかりです。中国の古典『資治通鑑』にはこうした殺し方が記述されています。

 朝日新聞社史には「中国の旅」の連載報道に対して「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」とあります。朝日新聞の御用教授である元軍人の藤原 彰一ツ橋大学教授は中国の主張と中帰連の「供述書」などを盲信して次のように語ります。 「この『中国の旅』の反響は深刻であった。日本軍による虐殺事件をあばき出し、かつての戦争における加害責任の問題を、事実にもとづいて日本人につきつけたからである。(中略)このルポの発表の舞台が発行部数の多い朝日新聞であったこともあり、事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口が、多数の読者の胸を打ったのである」

 共産シンパの活動により1978年頃には「中国の旅」は批判を受けつつも日本の教科書に記載され、百科事典、歴史事典にも記載されます。1980年には中国の教科書にも記載されました。朝日新聞が報じるまで中国でも歴史事実とされてなかったのです。その後、研究者により証拠とされる、証言・日記・写真の全てが戦後に偽造されたと判明しています。「中国の旅」を報告した本田 勝一記者も中国側証言を無検証で報道した物と認めます。それでも、2006年9月 中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」から 本多勝一記者と南京戦で日本軍による被害者を30~34万人と唱えた『近代戦史の謎』の著者である洞 富雄(故人)に「特別貢献賞」が贈られます。

 2017年 中国共産党は「南京大虐殺記念館」のリニューアルを始めます。12月14日には一般公開が始まりました。産経新聞の報道(2017.12.15)によると、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された朝日新聞の本多勝一元記者らの写真と朝日新聞の記事が撤去されていました。「日本軍が朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田証言の虚偽報道を2014年に朝日新聞が認めたことなどから、同紙の過去の報道の信頼性に疑念をもたれる恐れがあると判断した可能性がある」としています。

 今では日本のマスコミは南京大虐殺には殆ど言及しません。朝日新聞だけの問題ではありません。マスコミ関係者では真相を語れないのです。真相を明らかにすると日本のマスコミや言論界、教育界が中国共産党に配慮して、日本社会で結託して情報操作を行い、歴史捏造している事実を認めることになるからです。マスコミの信用失墜は必然です。それでも、今に至っては真相の隠蔽は限界に来ています。報道機関は信頼回復の為に朝日新聞の虚偽報道と向きあい、自らの手で本当の歴史を明らかにする必要があると思えます。それが報道の使命であり、唯一の信頼回復方法だからです。朝日新聞には「中国の旅」の取消訂正を、他の大手新聞には歴史捏造の検証をお願いします。

新聞の正義が問われています。

日本国民が真の歴史を知ることができるように、報道機関による真相解明を強く望みます。

 2022・11・23

2023・9・3 一部 加筆修正



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