
南京事件の真相
コミンテルンの陰謀
共産主義は1848年にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスにより書かれた書籍『共産党宣言』が始まりです。当時は封建社会から資本主義に移行する混乱した時代であり、労働者は低賃金で奴隷のように働かされていました。その現状からマルクスは労働者による革命が起きると考えたのです。1917年に勃発したロシア革命も共産主義革命などではなくて、封建制度だったロシアで食料・物資不足からくる市民革命です。1919年 ロシアでウラジーミル・レーニンがコミンテルン(共産主義インターナショナル)を設立します。1922年にロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの4共和国が合邦し、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。共産主義からマルクス主義を否定修正する修正派共産主義がうまれイタリアにわたります。1924年レーニンが死去するとヨシフ・スターリンが権力を掌握します。
世界では共産革命などまったく起こらず。ソ連国内だけでは国家運営がうまくいきません。1935年に開かれたコミンテルンの大会では、単一民族の国家を分断国家にして共産主義と資本主義を実施させることで、共産主義の先進性や優位性を示めし、世界共産化を加速させようとする案が出ます。その標的とされたのが、国家社会主義で力を増していたナチスドイツと台湾を植民地にして朝鮮半島を併合し満州国を建国して「五族協和」を提唱する日本だったのです。ソ連は中国の赤化を目指して中国共産党を作りましたが、ソ連から中国への内政干渉で、中国は容共から反共に舵を切ります。満州建国で日本との軋轢もありましたが、続く内戦で、1933年には汪兆銘(おう ちょうめい)と蔣介石(しょう かいせき)は全力で共産主義を滅ぼし国内の安定を確保してから、海外との外交をおこなうと方針が定まりました。
内戦がおさまるまでは日本軍とも協力するということで、日本と中国政府は良好な関係でした。しかし1936年12月 国民党軍の蒋介石を共産党が拉致しました。蒋介石は国家社会主義者です。殺害はせず中国内の日本軍に対して、国民党と共産党での共闘を提案したのです。米国の支援を受ける蒋介石と日本軍を戦わせることで、米国を戦争に巻き込み、国民党軍を弱体化させて共産党に政権を取らせる陰謀だったのです。中国共産党は国民党軍に工作員を送り込み1937年7月7日 北京西南方向にある虚構橋で日本軍に向けて発砲させて、国民党軍と日本軍の軍事衝突がはじまります。日本軍は蒋介石のクーデーターから北京を守るために、中国の通州にある日本人居留地から、守備隊が出動したのでした。7月29日 守備隊の大半が出動した日本人居留地に、中国人保安隊が急襲をかけて、留守の守備隊を殲滅します。
その後、日本人居留民250人以上を、時間をかけて拷問しました。そして、男女の区別がつかないぐらい猟奇的に殺害したのです。証言者を残していることから日本人の怒りを誘い挑発するための凄惨な虐殺事件です。この事件で蒋介石は引けなくなります。8月13日 国民党軍が攻撃を開始することで「第二次上海事変」が始まりました。8月14日 中国空軍が上海へ無差別攻撃を実施して、租界地などの歓楽街にも被害が出たのです。8月15日 蒋介石は対日抗戦総動員令を発令して、自らが陸海軍総司令官に就任します。対して日本軍は「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲する」との声明をだしたのです。日本は中国に対し「速戦即決戦略」を採用しました。蔣介石は上海に主力を集中することで日本軍を消耗させる「持久消耗戦略」をとります。そして、揚子江流域都市で日本軍と決戦すると計画したのです。
上海戦で蒋介石は住民を盾にする戦術を採ります。住民保護を優先する日本軍は20キロを進むのに1か月余を要しました。それでも11月5日に第10軍を杭州湾に、第16師団は白茆口に上陸させることで、戦況は一挙に好転し始めます。11月7日に上海派遣軍と第10軍を併せて中支那方面軍として再編成しました。国民党軍の主力は橋梁や道路を破壊しながら揚子江流域都市に撤退していきます。11月15日に第10軍は「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき」と積極案を出して独断で進撃を開始しました。松井 石根中支那方面軍もこれを追認したのです。11月26日 唐生智(トウ・セイチ)が南京守衛部隊司令長官(防衛司令長官)に任命されます。約15万の兵力を指揮下に置きました。大本営は大陸命第8号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し、南京攻略を命令したのです。
12月3日 日本の上海派遣軍と第10軍の約10万人は、兵力を三つのルートに分けて南京包囲作戦計画を実施します。南京城内では水道が故障して数日前から下関には常に3万〜5万の難民と退却軍であふれた状態でした。12月7日 夜明け直前、総統の蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットが操縦する大型単葉機で南京を脱出します。南京市長ら政府高官もすべて南京から脱出したのでした。食料不足から南京城内では、暴動が多発します。国民党軍は連日、怪しい民間人を銃殺しました。暴動を抑える見せしめに、約2千人の民間人を殺害したのです。国民党軍の兵士の背後には、督戦隊と呼ばれる自軍の監視専門の部隊がいます。逃亡や命令なき退却を阻止する事が目的です。日本軍から逃れて戻ってくる兵士を戦線に戻すために機関銃で銃撃します。それでも敗走した兵士は反転などしませんし止まりません。
死体を乗り越えてくる中国兵を容赦なく殺害します。こうして、南京城外に中国兵の死体での山ができたのです。12月8日 日本軍は南京城の包囲を完了しました。12月9日夕方、日本軍は飛行機で南京城内に降伏勧告のビラを撒きます。12月10日 投降勧告の回答期限である正午を過ぎました。国民党軍からの返答はありません。13時に日本軍は総攻撃を開始したのです。第9師団左翼隊は光華門、雨花台東端を攻撃します。16師団は紫禁山を攻撃、歩兵9聯隊が桂林石房を占領します。歩兵33聯隊第三大隊は紫禁山東端の227.5高地を、第二大隊は16時 382.5高地を占領しました。第10軍の114師団、第6師団は雨花台、将軍山正面を攻撃します。17時30分、日本軍は光華門を確保しました。唐生智は19時に、各部隊に陣地の死守を下命します。兵士の長江の渡江も禁止します。無断渡江は、武力で阻止せよと命じたのでした。
夜に第11中隊が雨花台82高地を夜襲して占領します。11日も激しい戦闘が続きます。唐生智は蔣介石から撤退の指示を受けました。12日12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領します。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、国民党軍第88師団の新兵が逃亡を開始して国民党軍の瓦解が始まりました。夕方までには大方の部隊が下関門に向かいました。別の中国兵は軍服を脱ぎ捨て、平服に着替えて民間人に変装します。12日20時 唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を下命します。しかし、戦い続ける兵士を見捨てて、自分だけ長江左岸にボートで逃走します。この逃走計画は、参謀本部の将校さえも知りませんでした。撤退命令が不十分で兵士は統制が取れなくなりました。自分達で退路を塞いだのです。狭隘な通路に兵士が殺到します。潰走兵の武力阻止を命令された部隊と衝突して、双方が発砲して大パニックとなりました。
銃撃の死傷者と後方からの圧迫で多数の兵士が踏み潰され、2メートルに及ぶ死体の山になります。それを乗り越えた兵士の多くが垂直の城壁を急造ロープで降りようとして墜死したのでした。下関一帯にも船を求めて中国兵が殺到しました。無断での渡江は、武力で阻止する命令でしたので、同士討ちが起こりました。北部の長江へつながる挹江門には、督戦隊が置かれていて撤退しようとする中国兵を虐殺します。総司令が降伏もせず逃げ出したことで、空前未曾有の惨劇が展開され、無数の国民党軍の兵士が同士討ちで落命したのです。12月13日03時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領しますが同隊は全員戦死します。08時30分に16師団戦車第一大隊は中山門に到着します。揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領して敵の退路を遮断しました。こうして南京は陥落したのです。
12月14日04時 第13師団山田旅団は幕府山に向かいました。先遣隊だけで08時に占領を完遂します。大量の中国兵が降伏して来ます。捕虜1万4,777名を上元門外の学校に収容しました。14日 日本軍は南京城内の敗残兵の掃蕩を開始します。昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊がいました。彼らは現状を知らずに戦っていたのです。14時頃堯化門において約7200名の中国兵が降伏してきました。18時に歩兵第38連隊一中隊護衛をつけて仙鶴門鎮北側に集めます。15日 上元門外の学校に収容した捕虜から現地徴用の兵を釈放します。収容者を約8千名としますが、夕飯の準備中に火災が発生して約4千名が逃亡します。汪兆銘政権の北京では、天安門広場に5万人の北京市民が集まります。日の丸と五色旗を振って南京陥落を祝っていました。16日 日本軍司令部は、中国兵が、約2万5千人市内に潜んでいると発表します。
軍服を捨て、平服に着替えて武器を隠しもっていると思われます。12月17日 日本の陸海軍による入城式が挙行されました。南京の避難民は「日本軍万歳」と叫んでいました。中支那方面軍司令部は南京に移動したのです。17日の夜、捕虜を中央刑務所(第一監獄所)に護送しようとします。上元門外の学校に収容した捕虜を揚子江対岸に整列させたところ、対岸から機関銃の掃射を受けました。捕虜はパニックを起こして日本軍警戒兵を襲撃したために射撃を加えます。捕虜約千名が射殺されて他は逃亡したのです。日本軍側も将校以下7名が死亡しました。仙鶴門鎮北側にいた捕虜は無事に護送されたのです。米国宣教師のミニー・ヴォートリンは「中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引き渡さなかったのだろうか」と日記に綴りました。
NYタイムズのダーディン記者は次のように報道しています。「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中に多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」「将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが、ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」
朝日新聞は次のように報道しています。「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(1937年12月26日東京朝日新聞)この日に城内の第三国人を保護するため、日本の外交官、福田 篤泰も入城しました。早速届いた第三国人からの手紙には「謹啓、私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」とありました。南京市の中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補は後に、こう証言しています。「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)



南京事件の真相
12月23日 陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復しました。南京市内では日本軍司令官によって戦闘の目的は軍閥にあって一般の中国人ではないと布告されたのです。便衣兵は自分たちで、掠奪や脅迫、強姦事件を起こして、日本兵の仕業だと報告することで、反日攪乱行為の活動を続けていたのです。12月24日 第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し、南京避難民区の兵民分離査問工作が開始されます。翌年1月5日まで続けられました。日本軍は治安維持のため1万人程度は処刑しています。これが南京事件の真相なのです。12月31日南京城内の電気と水道が復旧します。1938年1月1日 南京自治委員会の発会式が挙行されました。式場には3万人の参加者が詰めかけて、日の丸と五色旗を振って祝いました。新政権の出現を祝い、日支提携の政治を示す宣言が発表されたのです。
ハロルド・J・ティンパーリは国民党国際宣伝処の顧問です。彼は上海から日本軍の残虐行為を捏造して電報を打っていました。1月16日に電報を打とうして日本軍検閲に差し止められました。「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」という内容です。報告をうけた福田領事官補は2通の電報で日本に報告します。「デマが流されている内容は」「日本軍が市民30万人以上を虐殺したというもの」という電報が何故か左翼の研究者にかかると「福田領事官補も30万人虐殺を認めた」になるから不思議です。30万人虐殺のデマはここから始まりました。中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師ジョージ・アシュモア・フィッチはティンパーリの依頼でマギーフィルムを隠し持ち、航空便で渡米して、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いて、米国政府関係者と面会したのです。
ティンパーリは4月初めに上海からロンドンに向かいます。7月にヴィクター・ゴランツ書店から『What War Means: The Japanese Terror in China』(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)を刊行します。南京大虐殺の捏造はこうして始まったのです。南京には日本人街や日本軍慰安所も開設されます。2月16日 日本軍の名を騙って掠奪暴行していた中国人集団11人が、憲兵隊の山本政雄軍曹らによって逮捕されました。主犯格は呉堯邦(28歳)です。ソウルで洋服仕立を営み、日本語が得意でした。呉らは日本軍入城後、通訳の腕章を偽造して強盗暴行を繰り返していました。3月28日 中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に南京国民政府を成立させます。4月には南京中山路に四階建ての大丸百貨店が開店してオートバイや自転車なども取り扱いました。1940年 維新政府は汪兆銘の南京国民政府(汪兆銘政権)に合流して南京は中国の首都になります。
ソ連は1939年にドイツと不可侵条約を結び、周辺国を占領することで戦争に備えていました。1941年4月には日ソ不可侵条約を結びます。ソ連は世界中にスパイを送り込み工作をおこなっていました。1938年6月 国民党軍は日本軍の進軍を遅らせるために、黄河の堤防を爆破破壊します。そして日本軍が破壊したと宣伝しました。死者・行方不明合わせて89万人です。日中戦争が終わらなかったのは、国民党軍のゲリラ戦と米国が航空戦力を支援していたからです。米国は1938年にB29の開発をはじめます。1939年には原爆の製造決定、1941年には木造家屋を効果的に燃やす焼夷弾の開発・実験と日本民間人を虐殺する準備を整えていました。そのうえで日本が守った中国と満州から手を引くように言ってきたのです。日本政府は悩みましたがアジア諸国が欧米に植民地化されて搾取されている現状から、中国と満州を手放せば日本も植民化されるという判断で、勝てる見込みの少ない太平洋戦争に突入したのです。
終戦の4ヵ月後の1945年12月8日から、GHQ(占領軍総司令部)はWGIPを始めます。まず新聞各社に「太平洋戦争史」の掲載を命じました。「このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。」(1945年12月8日朝日新聞)NHKラジオも利用されます。「真相はこうだ」が放送されました。南京事件のところでは「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたのだ」のセリフが繰り返し、放送されます。NHKに抗議が殺到しました。このため放送は10回で終わり、今度は質問を受けて答えるという形式をとった「真相箱」 が登場しました。GHQは日本軍の悪逆な行為を言い立てます。放送に対する活字による反論等は検閲によってカットします。反論を認めず一方的に言いまくる、こうした一連の過程は日本人洗脳工作といえるものでした。
1946年 国民党政府によって開かれた南京軍事法廷で、南京での埋葬者を15万5千人とする資料をだします。4万3,123体を埋葬したのは「紅卍字会」(こうまんじかい)です。詳細な活動記録があり、信用できます。「崇善堂」(すうぜんどう)が、11万2,266体を埋葬したする資料は信用できません。「紅卍字会」より少人数で短期間の活動です。実際は1万人程度を埋葬しただけで、10万人は資料上での水増しなのでしょう。判決では「被害者総数は30万人以上に達する」と認定します。ここで、埋葬者の水増しなどせず、被害者総数を10万人程度にしておけば後年、捏造が暴かれることも無かったと考えます。東京裁判で国民党政府は43万人の犠牲を主張します。しかし、根拠がありません。推定被害を加算していき、被害者数11万9千人と言う数字がでてきます。国民党政府は資料として南京軍事法廷と同じ15万5千体を埋葬したとする資料を出します。
1948年1月 東京裁判は南京大虐殺の被害を20万人以上と認定しました。責任者として松井 石根大将に死刑判決を言い渡したのです。1952年日本の主権が回復すると南京大虐殺は全く報じられなくなります。WGIP は失敗でした。時代が近すぎて真相を知る当事者が多く歴史捏造による洗脳は難しかったのでしょう。1945年 日本降伏後も中国山西省では、国民党軍と共産党軍とが戦っていました。国民党軍の蒋介石は、日本軍部隊に日本人居留民を帰国させる条件で、共に戦う事を要請します。日本軍部隊は了承して、中国に残留したのです。共産党軍と闘いました。しかし、ソ連の支援を受けた共産党軍が勝利します。日本軍部隊は投降しました。第一軍の関係者ら140人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容されたのです。毛沢東(モウ・タクトウ)は中国内戦に勝利したのでした。
1950年7月 中ソ友好同盟相互援助条約の元、60万人に及ぶ日本兵シベリヤ抑留者の中から969人を選別して中国の撫順 (ぶじゅん)戦犯管理所に移送します。太原組と撫順組を合わせた1109人が中国戦犯といわれる元日本兵でした。戦争中に「日本による数多くの非人道的な犯罪行為を目にし、加担し、実行した」とされた戦犯容疑者です。それでも戦犯管理所では、衛生的・文化的生活が保障されて、自分たちの行為を反省して罪を自主的に告白する「認罪運動」が行われました。それを元に「供述書」や「手記」が作成されたのです。中国共産党は、 1949年に人民解放軍が南京占領時に行った残虐行為を参考にして、日本兵の残虐行為を捏造していたと推測できます。 元日本兵は中国共産党から、戦争犯罪を許されることで、1956年6月頃から日本に帰国します。
1957年 帰国した元日本兵の一部は「中国帰還者連絡会」(中帰連)を創立し、「反戦平和運動」「日中友好運動」を展開しました。日本の左翼研究者は中帰連の「供述書」や「手記」を元に書籍を執筆することで、歴史捏造に加担します。1958年 毛沢東は「大躍進政策」の失敗で、多数の餓死者をだして失脚します。1966年 毛沢東は復権する為に「文化大革命」を起こしました。内戦状態では対外宣伝工作を実行できません。1969年 毛沢東は復権します。騒乱は沈静化して逝きました。中国は経済も技術も失ってしまったのです。そこで、親中派の日本の政治家と朝日新聞の社長を中国に招き、1ヵ月間も歓待します。1971年 朝日新聞は「南京事件」を報道します。中国共産党の用意した証言を検証もせずに、新聞社の権威で史実として報道したのです。それは、日本の中国支援を正当化する為の政治的なプロパガンダなのでした。
朝日新聞が1971年に報道した「中国の旅」第三部「南京事件」の記事を引用します。
「日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した。川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった。どこへ行っても空気は死臭で充満していました。」
「虐殺は、大規模なものから1人~2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、約30万人が殺された。」
「日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた。このことについては、多くの写真が残っている。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・。5万人もなだれこんだ日本軍。そのすべてではむろんないにせよ、かなりの兵隊が加わった強姦事件の被害者は何万人におよび、1人が1度に30数回もつづけて強姦された例があるので、件数は何十万件とも見当がつかない。10歳前後の童女から70歳以上の老女まで、すべて強姦の対象なのであった。」
「ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。」
「南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約30万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知る由もない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないと見る研究者もいる。洞 富雄 著『近代戦史の謎』の分析は、30万人、あるいは34万人説を事実に近いとみている。」
これはどう読んでも1937年に日本軍が南京を陥落させた時の出来事ではありません。日本軍が南京になだれこんだ事実はありません。民間人に対して強制連行もしません。避難民は安全区にいました。敗残兵となった中国兵は便衣兵となって安全区に逃げこんでいます。日本兵がそろって強姦できる状態などありえないのです。南京で2万人もの捕虜が虐殺されたという話が出たのは1957年なのです。中帰連が帰って来て広めたデマですね。国民党軍が1945年に共産党軍が1949年に南京に入城しています。私にはその時を参考に作られた証言だと思えるのです。両軍とも略奪・強姦・民間人への暴力や殺害が黙認されていました。戦闘終了時に自由行動が与えられます。強制連行もします。抵抗する者への見せしめとして民間人を惨たらしく殺すのです。 (了)
一次資料として12月14日~1月4日に撮影された記録映画を掲載します