自虐史観洗脳
WGIPは失敗、日本人の自虐史観の洗脳は
別の所からやってきた
太平洋戦争前の日本は満州国を建国します。共産主義の陰謀から日中戦争が起き、日本は国際社会から孤立しはじめます。資源確保のためアジアで欧米の植民地を解放し占領し始めると益々国際社会の締め付け厳しくなり、アメリカにハルノートを突きつけられ、勝てる見込みのない太平洋戦争に突入したのです。
太平洋戦争当初は欧米植民地を解放占領しました。大東亜戦争終戦時、連合軍がもっとも恐れたのは日本軍が欧米の植民地支配からアジアを解放した「アジア解放軍」として歴史に名を残す事でした。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は終戦当初は共産主義も許容する容共であり左翼シンパも数多く存在しました。共産思想の元に日本占領政策の一環として「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)が行われました。労働組合の結成も促進します。
WGIPの概要は日本に二度と軍国主義が復活しないように「軍国主義者」と「国民」の対立をあおり日本人に戦争を起こした罪悪感を植え付け、全ての罪を残虐な侵略戦争をおこした「軍国主義者」の責任にし、日本人の愛国心を奪い左傾化し、 欧米の植民地支配や原爆投下を正当化しようとしたのです。
GHQは検閲と宣伝計画で日本人に自虐史観を植え付けようとしました。
1945年12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特別配給し、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戦争史」を連載させます。
「このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。」(1945年12月8日朝日新聞)
翌12月9日からNHKのラジオを利用して「真相はこうだ」が放送されました。南京事件のところでは「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」のセリフが繰返えし放送されます。NHKに抗議が殺到しました。このため放送は10回で終わり、今度は質問を受けて答えるという形式をとった「真相箱」 が登場しました。
1946年9月 「公職追放令」 をもって少尉以上軍人や軍国主義者とみなされた政治家らを公職から追放しました。1947年1月 言論界、財界、地方公職なども対象を広げ合計約21万人が公職から追放されました。言論界では右翼人が追放され残った識者の8割は左翼か左翼シンパだったと言われています。GHQは日本社会の左傾化をすすめたのです。
極東国際軍事裁判 もWGIPに則り行われました。
戦争を起こした軍国主義者は「平和に対する罪」でA級戦犯とされ裁かれます。
1948年11月には「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は 20万人以上 」とする南京大虐殺の欺瞞とも思える裁判結果がでるのです。他に10万人の民間人を殺したとマニラ大虐殺と言う事件も捏造します。
高橋史朗明星大教授は、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じています。
1949年10月 中国では中共軍が蒋介石軍を各地で打ち負かし、蒋介石は台湾まで押しやられ、中華人民共和国が成立します。
1950年6月 ソ連から武器供与を受けた北朝鮮が韓国に侵略する朝鮮戦争が勃発します。
1950年7月 GHQの総司令マッカーサーは共産思想を脅威とし容共から反共へ方針を変え「レッドパージ」と呼ばれる政策を行いWGIPも止めてしまいます。
日本社会の左傾化を防ぐため教育界、報道界をターゲットにして教職員、新聞記者等のうち左翼人の追放に踏み切ります。NHKから119人、朝日新聞から104人、他に合わせて700余人が対象になりました。しかし言論界は8割が左翼人で労働組合が力を持ち後の日本社会、特にマスコミの左傾化をすすめる結果になります。
1952年4月 サンフランシスコ講和条約の発効によって、日本の主権が回復します。その半年後の10月にラダビノード・パール博士が来日します。
パール博士は東京裁判における11人居た判事の1人で、インド代表であり、唯一国際法に精通した学者でした。博士は日本の国家行動は国際法に照らして無罪であると終始主張しA級戦犯の無罪を表明していたのです。東京裁判についてパール博士は以下のように述べています。
「要するに、彼ら(連合軍)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であるとの烙印を押し、罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない・・・ 日本の子供たちが歪められた罪悪感を背負って 卑屈・頽廃に流されていくのを、わたしは見過ごして平然としているわけにはいかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤れる歴史は書きかえられねばならない。」
この短い文章に、戦後の日本の真実が凝縮されています。
WGIPは成功とは言えません、実際参戦した兵士も多く存命していて多くの日本人は日本が自衛とアジア解放の為に戦い、力及ばず敗れたことを知っていたのです。WGIPに使われた南京大虐殺やマニラ大虐殺も忘れ去られます。1952年~1955年にかけて4回の国会決議でA級戦犯の名誉回復も行われました。
自虐史観洗脳は別の所から来ました。中国からです。ソ連の後押しで共産化した中国は人心掌握や洗脳が科学的に進んでいました。共産思想は情報操作に長けているのです。
心に衝撃を与えるほどの残酷、残虐行為こそ自虐史観の洗脳に有用だと知っていたのです。国民党が放棄した戦後賠償の代わりに長期的な経済支援を受けるためにも中国共産党は日本人にを植え付ける必要があったのです。
1950年7月 中ソ友好同盟相互援助条約で六十万人といわれる日本軍のソ連抑留者のうち969人が選別されて中国に送られ、撫順(ぶじゆん)戦犯管理所という名の監獄に収容されました。
中国山西省では日本降伏後も国民党軍と共産八路軍とが戦闘状態にありました。国民党軍は「日本人居留民を帰国させる」等の条件で、日本軍に残留を要請します。受け入れた日本軍は国民党軍とともに八路軍と戦ったのですが八路軍の勝利に終わり日本軍は投降、第一軍の関係者ら140人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容されました。
撫順組と太原組を合わせた1109人が中国戦犯といわれる人たちでした。
中国共産党政府の設置した戦犯管理所では、シベリア抑留時代とは異なり栄養豊富な食事、病人や怪我人への手厚い看護、衛生的・文化的生活が戦犯容疑者たちに保障されました。一方、戦争中「日本による数多くの非人道的な犯罪行為を目にし、加担し、実行した」とされた戦犯容疑者たちは、それまでの自分たちの行為を「反省」し罪を「自主的に」告白する「認罪運動」を長期間にわたって課されます。時間をかけて日本軍残虐行為の証拠の捏造し自身が行う残虐行為を日本兵に洗脳で押し付けたのです。
1956年4月「中国に侵略した日本軍の処分に関する全国人民代表大会常務委員会の決定」に則り、大半の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受けます。1956年6月から7月の間に山西省太原市と遼寧省瀋陽市で開かれた特別軍事法廷で重要戦犯容疑者の45人の裁判も行われました。
1957年、中国共産党により「罪」を許され帰国した元戦犯容疑者たちの一部は中帰連(中国帰還者連絡会)を創立し、「反戦平和運動」「日中友好運動」を展開しました。
彼らの記録は中国に書き残してきた「供述書」と「手記」帰国後の「証言」の3つに大別できます。いずれも常識では考えられないほどの異常な日本兵の残虐、残酷な行いを告白したのです。
「手記」は何冊もの本になります。また彼らの口から語られた帰国後の「証言」は、多くのメディアが取り上げ、多くの日本人学者の論文や著作に引用されました。常識では考えられないほど異常で残酷で残虐な事件でも、証言者が中帰連だとは明示されないので、ごく普通の日本将兵の真実の証言と思ってしまうのです。
1960年1月 渡米した岸信介首相率いる全権委任団は、1月19日に新安保条約に調印します。日本のほとんどの新聞は「戦争に巻き込まれる」として日米安保条約締結に猛反対、反米ムードが広がっていきました。
1960年5月~6月 強行採決された新安保条約にメディアの扇動に乗り、 30万人と言われる全学連のデモ隊は熱に浮かされたように「アンポ ハンタイ」を声高らかに唱えながら塀を乗り越えて国会に突入します。日本社会が最も左傾化した時だとおもえます。
1964年4月 日本と中国の間で記者交換の合意が成立します。9月には日本側9社9人、中国側7人が任務につきはじめました。
1967年9月 北京駐在の日本人特派員が次々と国外退去処分になる事態が発生します。処分の理由は、日本の報道が中国政府の意向に沿わなかったのです。毎日、産経、西日本の3社3人が、10月には読売、日本テレビの2人が処分を受けます。翌年6月には日経記者鮫島特派員がスパイ容疑で逮捕・拘留されます。
1970年3月 朝日新聞の広岡 知男社長が1ケ月間も訪中します。中国共産党とどのような話をしたかわかりませんが朝日特派員の安全と引き換えに中共が用意した捏造の日本軍残虐行為を報じ、日本軍国主義復活反対、日米安保条約解消、日中友好、等を論じる報道を約束したと推測されます。日本国内では赤軍派による よど号ハイジャック事件 がおきます。
そのあと朝日新聞は「日本で軍国主義復活の危険な情勢」「安保条約の解消 と日中関係正常化」がわが国の恒久的な安全保障の条件などの中国の意向に沿う記事を掲載します。
1970年9月 NHK、共同通信社の2人が処分を受けて、結局、朝日新聞以外の特派員が国外退去処分になりました。
1970年10月 広岡社長は新聞協会主催研究会で 「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言します。広岡氏は「体育会系」で特定のイデオロギーは何もなく、「権力志向の人間」だったと言われていますが、組合と部下の左翼人を使い権力固めをしたので、朝日新聞内は一切の批判を許さない完全な広岡独裁制の左翼人の巣窟となりました。
1971年8月~12月 現地ルポと称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社による日本軍断罪一大キャンペーンがはじまりました。報告者は本多 勝一記者 でした。連載は平頂山事件 、万人坑、南京事件、三光政策 の4部に分けて報じられました。
日本側の裏づけ取材は実行されません、一方的に「中国の視点」を紹介するのです。中共の用意した証言をそのまま載せて、事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。
後に本にまとめられます。朝日連載は「平頂山事件」「万人坑」「南京事件」「三光政策」 です。そのいずれもが、「読んでいて気持が悪くなった」と感想をもらす人もいるくらい、日本軍および民間人が行った残虐非道な行為であふれかえっていました。
これらの話の証拠は中帰連の「手記」や「証言」でありすべて中国共産党が捏造したものです。中国共産党の情報戦です。朝日新聞は率先して報じたのです。
さらにテレビが加わります。そして、これらが報じる残虐事件、残虐行為を事実と決めつけた大学教授、文化人ら によって、日本の過去断罪は一気に進みました。
日本軍の残虐行為は「朝日新聞」「毎日新聞」「共同通信」「NHK」 「ジャパン・タイムズ」などの共産思想に迎合した媒体で事実として世界中に伝えられたのです。
「平和教育」 の名のもと、自虐史観を進めていた「日教組」もこれら一連の残虐報道に飛びつきました。残虐行為ほど生徒に分かりやすいものはなく、効果を期待できると踏んだのでしょう。 十代の時耳に入った毒(残虐話)は一生抜けないのです。「平和教育」とは愛国心を奪う反日教育なのです。
報道された日本軍の所業は、ケタ違いの殺害数もさることながら、捕まえた中国人の内臓を取り出して食うといった「想像を絶する」 行為が多数含まれていました。保守系の評論家の山本 七平は「日本人は集団ヒステリー状態」 に落ち入ったと嘆いたほどです。
1972年2月 国民の支持をうしないつつあった 左翼活動家は先鋭化してあさま山荘事件を起こします。学生運動での日本社会を左傾化させる事に失敗したマスコミは新たに左傾化を進めるため中共の用意した日本軍残虐行為を報じたのです。
1972年9月29日 北京で日中平和友好条約が締結され 、日本は中国に対し長期にわたる経済支援と技術供与を行うことになります。
1970年頃から中国共産党は続けて日韓離反と韓国の反日感情を高めるため慰安婦報道の準備をはじめます。
韓国では建国前に武装蜂起した済州島島民にたいし無関係の島民を含め 国防警備隊(後の韓国軍)が略奪、強姦、虐殺し焼払う「清野作戦」を行いました。島民の住む村を襲うと住人を殺害するとともに、少女達を強制連行し、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返し帰りの船にのせ海に捨てて殺害したと言われています。村は焼かれ多くの犠牲者が出ました。 多くの島民は日本へ密航や逃亡で逃れ在日韓国人になった言われています。被害者は1万4千~6万人とされています。 1948年に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したのです。朝鮮戦争時勃発後は韓国軍は強制連行した少女を「挺身隊」の名称で「第五補給品」として各部隊に一定人数を割り当て性奴隷としていました。李承晩は韓国軍に命じ、売春婦を集めドラム缶に詰めて前線に送り「従軍慰安婦」と言う国営売春をしたのです。
この戦争犯罪を日本軍に押し付けようとしたのです。
1970年に韓国新聞が日本軍女子挺身隊20万人徴用を嘘を報じ、その記事を元に、元毎日新聞記者の千田火光が「従軍慰安婦」と言う書籍を1973年に出版します。朝日新聞は 週刊朝日で佳作をとった作家志望の吉田清二に済州島で強制連行を実行した内容の書籍を書くように薦めたではないかと個人的に考えます。
1982年 朝日新聞は吉田証言の「朝鮮人強制連行」を報じ始めます。1989年に日本政府は朝日の報道を受け調査しますが強制連行の証拠は見つかりません、吉田証言は検証の結果、信用できないとされますが、朝日は報じ続けます
1990年 韓国に北朝鮮とつながりのある「挺対協」が結成され韓国内で日本軍慰安婦を大きく取り上げるよう働きかけます
1992年 朝日新聞は「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は 8万とも20万人 ともいわれる。」とでたらめを報じます。朝日新聞が挺対協の主張をのせ、挺対協が日本が認めた事実と韓国内で紹介するのです。
日本軍の行為と日本の国家行動に対する謝罪、賠償 を迫る中国、韓国など海外の攻勢をまえに、日本はいく度となく謝罪を繰り返し、反省を表明します。そして謝罪を繰り返すことで既定の事実となって、さらに欧米諸国をも含めて日本非難の声が大きくなる悪循環を引き起こしてしまったのです。日本人は日本軍が悪だと信じ込まされたのです。
このようにして中国と日本マスコミによる日本人の自虐史観洗脳は完了したのです。
中国の走狗と成った朝日新聞は中帰連や挺対協と連携して一連の歴史修正報道をおこなったのです。事実を伝えると言う報道の責任を放棄し欺瞞をまき散らしてきたのです。
パール博士の言葉の
「彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。誤れる歴史は書きかえられねばならない。」
は実行されるべきです。
時代は変わり今は個々人が情報を発信できる良い時代です。
欺瞞を払拭するため事実と思える事を発信することで
権威を背景に欺瞞を垂れ流すマスコミに一矢報いたいと考えています。
朝日新聞は告発されるべきです。
アメリカの慰安婦像には朝日の記事に基づき
「日本軍20万人の女性 性奴隷 強要」と書かれています。
日本人の力で朝日新聞自身に修正させましょう