
本当の従軍慰安婦
工事中近日差し替え予定です。
韓国建国時の黒歴史
1910年8月22日 韓国併合条約が調印されます。大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有しました。李氏朝鮮時代に両班だった李承晩(イ・スンマン)は1911年 アメリカに亡命して大学に通います。1913年にハワイに定住しました。1919年4月 中国の上海で大韓民国臨時政府の樹立が宣言されます。李承晩はワシントンで臨時政府の欧米委員部を設立しました。1945年8月 太平洋戦争終戦間際にソ連は満州へ派兵します。日ソ中立条約を破り、日本領だった朝鮮半島にも進軍したのです。アメリカはソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れました。ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案したのです。ソ連はこの提案を受け入れます。朝鮮半島は北緯38度線を境に分断されました。北部をソ連軍、南部を米軍が占領統治したのです。朝鮮解放に伴い、李承晩はハワイより帰還します。
親米派の韓国独立運動家として権力を蓄えていきます。1946年5月 南朝鮮全土にコレラが流行し、慶尚北道だけで、4千人が死亡しました。その後、水害による交通破綻や米軍への強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰してしまいます。9月にはいると市民による抗議デモが頻発しました。10月1日に大邱府庁前での抗議デモに対して警察が発砲して市民を射殺します。その抗議活動により騒ぎが広がります。翌日に米軍が収拾のために戒厳令を布告します。しかし、戒厳令に反発して南朝鮮全土で230万人が参加する大騒乱になってしまいます。事態収拾に、米軍や南朝鮮防衛隊が投入されました。警察や右翼団体も動員されます。それで136名もの犠牲者がでました。米軍統治への批判が起こり、南朝鮮では共産主義の南朝鮮労働党(南労党)への支持を増やす結果となったのです。
1947年3月1日 済州島には南労党員が多くいました。それで、済州市内で南北統一しての独立国家設立を訴えるデモをおこなっていたのです。デモ隊に警察が発砲し、島民6名が死亡します。この事件を機に3月10日 抗議の全島ゼネストが決行されました。李承晩の一派は南労党支持者への見せしめのために、略奪・性的暴行・暴行虐殺を行う「権利」を与えられた右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み白日テロをおこないます。反共を掲げて島民を弾圧します。警察は見て見ぬふりで取り締まりしません。1948年4月3日 済州島島民の不満を背景に南労党員を中心として武装蜂起します。李承晩の一派は 南朝鮮防衛隊を投入して制圧しました。残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになります。すると南朝鮮防衛隊は無差別に島民の処刑・粛清をしたのです。ゲリラに協力するかもしれないという理由です。
島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害します。少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返します。帰りの船から海に投げ込み、殺害したと言われています。村は焼かれ、多くの犠牲者が出ました。韓国政府は犠牲者数を1万4千~3万人としていますが、犠牲者数が6万人以上だとする研究者もいます。多くの島民は日本へ密航・逃亡したのでした。1948年に28万人いた島民は、制圧が完了した1957年には3万人弱にまで激減しています。1948年8月15日 朝鮮半島南部単独で大韓民国政府樹立を宣言します。李承晩が韓国初代大統領に就任しました。同年9月9日ソ連の後援を得て金日成は朝鮮民主主義人民共和国を成立させます。1948年10月19日 全羅南道麗水郡駐屯の国民防衛軍(韓国軍)第14連隊に済州島の鎮圧のため出動命令が下命されました。隊内の南労党員が反乱を扇動します。
これに隊員が呼応し、部隊ぐるみの反乱となりました。反乱は麗水郡から隣の順天郡にも及びました。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日には鎮圧されます。事件による死者は2976名です。その他、負傷1407名、行方不明887名の被害をだしました。事件の首謀者と幹部152名が軍法会議で死刑となりました。この事件で、左翼や南労党員の出身者など約4700名あまりが韓国軍から排除されます。反乱部隊が第十四および第四連隊であったことから「四」の番号は不吉とされます。以後韓国陸軍の部隊番号の欠番とされました。残兵はその後北部の山中へ逃げ込みます。長くゲリラとして抵抗しました。対応として済州島と同様に非武装の民間人約8千名が韓国軍に虐殺されたのです。1948年12月1日「国家保安法」を制定します。韓国の国家保安を脅かすような反国家活動を規制したのでした。
1949年1月7日 李承晩は戦勝国としての権利を主張します。対馬と九州を含む李承晩ラインを宣言しました。対馬と九州を韓国の領土にして、朝鮮進駐軍の日本駐留を要求します。米軍に激しく叱責されました。1949年2月 韓国軍の南部での大演習を装って対馬への侵攻を実行しようとします。米軍が制止しました。米軍統治下の日本へ侵攻しようとしたことにマッカーサーは激怒します。5月には米国から韓国軍への武器供与は停止されます。6月には在韓米軍が撤退を始めて7月には撤退を完了したのです。 6月5日 左翼思想者を改心させる目的で国民保導連盟を設立します。保導連盟に登録して愛国者に改心すると、それまで左翼活動していても処罰されません。配給を早く受けとることができます。政府による就職の斡旋もありました。左翼思想者でなくても、多くの国民が配給や就職を目的に登録したのです。
1950年6月25日04時 軍事力が優位になった北朝鮮軍は砲撃を合図にして韓国へ進軍を開始しました。10万人以上の北朝鮮軍です。6月27日01時 中央庁において招集された非常国務会議で「国会議員は100万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされます。同時に政府の水原への移動も決定されます。非常国務会議で李承晩は、保道連盟の加盟者や収監中の政治犯を処刑するよう命じます。北朝鮮軍へ参加することを恐れてでした。命令は韓国全土で韓国軍や韓国警察によって実行されたのです。共産主義者の嫌疑をかけられた民間人が裁判もなしで大量虐殺されました。この事件の遺族会である全国血虐殺者遺族会が、休戦後に遺族の申告をもとに作成した報告書では被害者を114万人としています。6月27日03時ごろ、李承晩は早々にソウルより逃げ出します。05時ごろより国防首脳会議が招集されます。
参謀総長は「政府は南に移動しても、軍はソウルを固守する」との決意を披瀝しました。直後に「今晩持ちこたえることは難しい」という前線からの状況報告を受け取るのです。06時に政府が水原への遷都を発表しました。それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知ったのです。避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到します。増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥りました。6月28日01時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破されます。ソウルの最終防衛線は崩壊しました。01時45分 参謀総長は北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報告を受けます。ただちに漢江橋を爆破する命令を残して、参謀総長は漢江を渡って逃げ出します。直後に陸軍本部に到着した第2師団長の准将と他2名の将校は爆破命令の件を聞きます。
主力部隊が後退命令を受けないままで漢江北岸で戦闘を継続中です。部隊を後退させたのちに爆破するように進言したのです。参謀副長もこれに同意しました。作戦局長の大佐に橋梁爆破を一時中止するよう命じます。しかしソウル市内、特に漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱しています。道路の通行は極めて困難であり中止命令書を持った兵士は作戦指揮所までたどり着けません。02時30分 約4千名の避難民が渡っていた漢江人道橋は爆破されました。人道橋に続いて3本の鉄道橋(漢江鉄橋)も爆破され、約500~800名と推定される避難民が犠牲となったのです。主力部隊と多くの韓国民は北岸に残ったままです。背後を遮断され、退路失ったことを知った主力部隊は、雪崩のように潰走をはじめます。韓国民ともども北朝鮮軍に一方的に殺害されました。韓国軍主力の武器や装備は接収されたのです。
爆薬の不備から鉄道橋2本が完全に爆破されず残りました。多くの犠牲と被害を出した作戦でしたが、北朝鮮軍の南進を遅らせる効果はありませんでした。1950年6月27日 国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき、韓国を防衛するために必要な援助を加盟国に勧告します。6月29日 マッカーサーは水原に入ります。敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめく前線を視察しました。韓国への派兵を約束して、その日の17時に本拠としていた東京へ戻りました。マッカーサーはその後も韓国内には拠点を置かず、東京から専用機で戦線へ出向き、日帰りで戻るという指揮方式を取り続けます。マッカーサーは本国に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言しますが、トルーマン大統領は承認しません。日本からB-29大型爆撃機を発進させます。北朝鮮が占領した金浦空港を空襲しました。
結局トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可しました。7月7日 アメリカ軍25万人を中心として、国連軍が結成されます。西日本に駐留していたイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども参加しました。しかし、準備不足で人員と装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けます。大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められました。北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地で徴集し、人民義勇軍を組織化しました。のちの離散家族発生の原因です。北朝鮮軍は再三に渡り、大攻勢を仕掛けます。釜山の陥落も危惧される情勢となりした。李承晩は山口県に6万人規模の亡命政府を建設できるよう日本側に要請します。追い詰められた国連軍は釜山橋頭堡の戦いを徹底抗戦の覚悟で臨みます。釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めたのです。

マッカサーの功罪
1950年9月15日 マッカーサーが発案した仁川上陸作戦(クロマイト作戦)が成功します。米軍と少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させたのです。ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ちました。これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させます。南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦(スレッジハンマー作戦)でした。国連軍は仁川を確保し、続いてソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功します。38度線から300キロ以上離れた釜山周辺での戦闘でした。大きく消耗していた北朝鮮軍は補給路を絶たれ、敗走を始めます。9月23日には全部隊に北緯38度線以北への後退が命令されます。それまで守勢であった国連軍が一気に攻勢に転じたのです。戦場離脱に失敗した北朝鮮兵は中央山地に逃げ込みます。そこで再編成され、南部軍と称し、ゲリラ活動を続けます。
ゲリラは中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、共産シンパの活動家などから構成されました。指揮官は済州島四・三事件の指導者でした。南部軍のゲリラ活動は朝鮮戦争休戦の1953年12月まで続きました。9月28日 国連軍がソウルを奪還します。9月29日 李承晩始め韓国政府首脳陣もソウルに帰還しました。1950年9月27日 統合参謀本部からの勧告がありました。北朝鮮軍が38度線以北で戦力を立て直し、再度の侵略を行う懸念があります。マッカーサーも38度線を超えての進軍を要求をします。トルーマンは38度線を突破を承認する条件を示しました。「ソ連と中国が参戦する発表がなく、朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合に限る」と伝えたのでした。10月1日 李承晩は韓国軍に「ただちに北進すべし」という命令をだします。
マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると判断していました。韓国軍の独断専行を特に問題とはせず米軍にも進撃を命じます。10月7日 米軍の第1騎兵師団も38度線を越えて進撃を開始しました。中華人民共和国の首相は「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない」とする声明を発表しましたが、ワシントンは単なる脅しだと無視したのです。しかし毛沢東はかなり早い時期の7月には戦争介入は不可避と考えていました。中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出して東北辺国防軍を創設します。仁川上陸作戦についても、北朝鮮に警告を与えていました。阻止できず38度線突破を許す事になった結果には幻滅します。それでも北朝鮮の敗北は共産主義の敗北です。
国連軍は、敗走する北朝鮮軍を追い、なおも進撃を続けます。10月10日 韓国軍が軍港である元山市を奪取します。元山港からは米軍第10軍が上陸しました。西側を第8軍が進撃します。東側は第10軍が進撃し、中朝国境の鴨緑江で合流して戦争を終わらせる。 二方面進撃の計画を立てました。10月20日 米軍第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りし、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面でした。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命しています。その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していました。東京から来て日帰りで指揮を執るマッカーサーは地勢を正しく理解していませんでした。
この頃の国連軍は、至る所で相互の支援や地上偵察の連絡すらできておらず。多くの異なったルートを辿り、バラバラに鴨緑江を目指していたのです。また補給港も遠ざかります。補給路は狭く険しく補給を困難にさせていました。10月26日 先行していた韓国陸軍第6師団第7連隊は中朝国境の鴨緑江に達しました。朝鮮半島を統一して戦争終了する夢が見えたのです。金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請しますが断られます。当時スターリンは「中華人民共和国を参戦させることで、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていました。ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援はおこないません。同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めたのです。10月2日 毛沢東はに金日成からの手紙を受け取ります。
部隊派遣要請でした。既に介入を決めていた毛沢東は参戦を決意します。中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することにしたのです。抗美援朝義勇軍は、最前線だけで30万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊を編成しました。ソ連から支給された最新鋭の武器が主力です。さらに第二次世界大戦時の武器や戦後に日本軍の武装解除により接収した武器も使用します。ソ連は秘密裏に航空戦力を支援しました。中国義勇軍は中朝国境付近に集結します。10月19日から夜間に山間部を隠密裏に進軍して鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始しました。国連軍の空からの偵察を欺くためです。この時の中国軍の兵力は12個師団でした。国連軍の13個師団とほぼ同兵力です。現状では国連軍を阻止することは困難だと判断します。そこで、12個師団 のうち9個師団 を西側の第8軍に集中させます。
弱いとされていた韓国軍3個師団に狙いを定めます。10月26日 中国軍と国連軍の小競り合いが起こります。中国側の威力偵察(軽攻撃による偵察)でした。米軍は中国義勇軍の規模を3万人程度と想定して、進軍を続けます。11月1日 中国軍が大規模な攻勢を開始します。韓国軍第2軍団第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで攻撃されます。第6師団は壊滅状態となりました。韓国第2軍団が撃破されたことで、第8軍は中国が大規模介入していることを認識します。清川江への後退と防御を命じました。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けたのです。清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦に専念します。中国軍は米軍陣地に攻撃することは不利と判断します。11月5日 攻勢を中止し、撤退しました。その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、罠を張っていたのです。
マッカーサーは鴨緑江に向けて進撃の再開を命じます。中国の本格介入に対しては、即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせると考えていたのです。統合参謀本部に対し、鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可も要請します。中国軍の進入路になっていると考えたのでした。トルーマンに宛てに「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言をおこないます。トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を受けました。中国軍は国連軍の動きや部隊配置を全て理解して待ち構えていたのです。中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難です。半島が広がり、第8軍と第10軍の間隔も更に広くなるのです。
第8軍の右翼が弱点となっていました。右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたのです。11月24日 国連軍は中国軍に対する攻撃を開始します。翌25日には、中国軍のほうが総攻撃を開始しました。韓国軍第2軍団は前回の被害で戦闘を極度に恐れていたのです。総攻撃でほとんどの隊が潰走します。ある連隊では500名の兵士が武器を持ったまま逃げ散ってしまったのです。韓国軍を撃破して勢いがついた中国軍は残りの国連軍に攻撃を加えます。その数は国連軍の第8軍の4倍にも達していました。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻されます。第2師団は右翼が包囲され、大損害を被ったのです。11月27日 マッカーサーは第10軍に更なる前進を命じます。中国軍は第10軍にも牙を剥いたのです。第10軍の第1海兵師団は包囲されます。第7師団も危機的状況に陥っていました。
マッカーサーは状況の深刻さを認識しました。トルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。中国兵は我が軍の全滅を狙っている」と報告します。マッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北をごまかそうとしました。今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのです。それを攻勢ではなく「敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察」であったとの明らかな虚偽の説明をおこないます。無謀な北進が散々警告されていた中国の本格介入を呼び込んだのです。アメリカに国家的恥辱を与えたことに対する責任逃れでした。11月28日の夜に東京で作戦会議が開かれます。主要な司令官が召集されました。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたてます。中々結論が出ませんでしたが翌29日に前進命令を撤回して退却の許可がなされます。
作戦会議の間にも状況は悪化する一方でした。第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰めらています。包囲されて前線が崩壊しているのです。リッジウェイ副参謀長が作戦を提言します。 第8軍に遅滞行動を取らせます。その間に第10軍を敵中突破させて撤退させるという物です。この作戦は実施されました。部隊は中国軍の大軍と戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」をおこないました。退却した距離は10日で200キロにもなります。国連軍は壊滅を逃れました。それでも受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷しています。国連軍の死傷者数は12,975名にもなりました。しかし人海戦術の中国軍の人的損害はその数倍に及んだと言われています。朝鮮戦争は、ヘリコプターやジェット戦闘機が初めて実戦投入された戦争となりました。
ヘリコプターは国連軍の負傷兵搬送に従事して活躍します。中ソ友好同盟相互援助条約に基づいてソ連により中国に供与されたMiG-15は当初は国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒しました。イギリスのジェット機ミーティアや米軍のジェット機のF-84やF-80に対しても有利に戦えたのです。米軍は最新鋭ジェット戦闘機であるF-86Aを投入して対抗しました。初期のMiG-15は欠陥を抱えていました。それでF-86Aに圧倒されます。改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いをするようになりました。米軍も改良型のF-86EやF-86Fを投入します。その結果、最終的には優位となりました。MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は1950年12月5日に平壌を奪回します。1951年1月4日 中朝軍は2度目のソウル奪取をしたのです。国連軍は37度線付近まで後退したのでした。



本当の従軍慰安婦
李承晩は1948年に韓国で公娼を禁じる法律を制定します。1950年の朝鮮戦争開始以後から兵士の戦意維持のために補給品として女性の支給を許可します。済州島や自国民虐殺時、北朝鮮から女性を強制連行していたと推測できます。戦地で強姦して殺害するより強制連行して兵士に報酬として与えたほうが良いと考えたのでしょう。陸軍には「特殊挺身隊」という組織が創設されます。部隊に一定人数の女性を「第五補給品」として割り当てて兵士の性奴隷にしていたのです。李承晩はいきなり大統領になったので、多額の政治資金が必要でした。1950年12月 李承晩は主に国連軍から外貨を稼ぐ目的で国家管理の売春も始めます。売春宿形式の固定式とドラム缶状の容器に一人ずつ娼婦を詰めます。韓国軍が戦線に運び、夜になると営業する移動式の形式がありました。彼女たちが本当の従軍慰安婦です。
1950年12月21日 韓国軍は45%を喪失していました。補充するため李承晩は国民防衛軍法を発効します。「韓国軍人・警察官・公務員・学生に該当しない満年齢17歳以上40歳未満の男子」約40万人を動員します。10万の韓国軍人と合流させます。50万の将兵達を51個の教育連隊に分け、国民防衛軍(韓国軍)を再編成しました。1951年1月4日に中朝軍にソウルを再度奪回された韓国軍は後退作戦(1.4後退)を敢行します。50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送するのです。しかし、軍の幹部達は、韓国軍のための軍事物資や兵糧を不正に処分・着服していました。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じます。9万名余りの餓死者や凍死者と無数の病人を出す死の行進となったのです。この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置されました。
人員数を水増しにより食料品費の計上額を20億ウォン水増しします。そこから国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領されたのです。着服金の一部が李承晩の政治資金としもて使われていたのです。李始栄副大統領と事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任しました。12月23日 第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡する事故が起きます。マッカーサーは後任として統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を推薦し、承認されます。自信を失っていたマッカーサーは前線の指揮をリッジウェイに託します。12月26日にリッジウェイは朝鮮半島に入ります。西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させますが、水原以南に大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけでした。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じます。
1951年2月9~11日にかけて韓国第11師団は太白山脈や智異山付近の南部軍ゲリラ討伐を任じられます。居昌郡から一人残らず共匪パルチザンを殲滅するのが目的です。 山清郡今西面芳谷里佳峴村に急襲をかけます。村の住民123人を殺害しました。渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃撃したのです。さらに約2キロ離れた芳谷村の住民212名にも銃撃で殺害します。13時30分に続けて咸陽郡休川面棟江里で60名を虐殺しました。花渓里・自恵里と咸陽郡柳林面の西州里・蓀谷里・池谷村で講演を開催するという口実で住民を西州里トンチョンガン砂礫地に集めて16時30分に殺害しました。金目の物を集めた後に家屋を焼き払います。智異山で第3大隊は住民719人を虐殺しました。内385人は15歳未満の子供です。ゲリラに協力したり利用されたりしないように村民を虐殺し、村を焼き払ったのです。
リッジウェイ中将の戦略は「確実に敵戦力を掌握して面で押すことで設定したラインへ押し込む」というものです。威力偵察で敵の場所と戦力を把握して北へ押し込んでいきます。強力な抵抗を受けた場合即座に援護を向かわせることで中朝軍を撤退させました。1951年1月25日から始まったサンダーボルト作戦は、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復しました。洪川付近に残った中国軍に対し集中的に攻撃することで、2月18日には中国軍を後退させます。中国軍は参戦当初は優勢でしたが、この頃には度重なる戦闘で経験を持つ古参兵の多くが戦死しています。補給線が延びきったことで攻撃が鈍りはじめました。それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始します。北進して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動します。
3月7日 米軍の第9軍団と第10軍団が北進を開始します。韓国の第1軍団と第3軍団が追従します。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回しました。3月14日には韓国第1師団が漢江を渡河します。ソウルを再び奪回しました。この時は韓国の首脳陣は帰還せず臨時首都は釜山市のままでした。中朝軍は占領地域に大規模な築城を行います。全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築して抵抗します。さらに1951年冬から1952年春にかけて兵力増強もします。中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人、総数86万7000人です。国連軍の60万人を凌駕しました。朝鮮戦争は朝鮮半島を南北一往復したのです。多くの被害と命を奪い、最初の38度線で膠着状態となります。韓国中では平和な日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれでました。
李承晩は政権批判をかわし日本統治時代への郷愁を断ち切る為に「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である。朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と国民に説いたのです。民衆に教育も与えず。奴隷を使う残虐な支配をしていたのは併合前の両班です。反日教育でそれを日本併合時に置き換えます。日本が朝鮮を近代化したのに日本が残虐な植民地支配をしたと歴史を捏造します。朝鮮半島から何もかも奪ったと国民を欺いたのです。徹底した言論統制と情報操作で親日派を排除します。「日本統治時代は良かった」と言っただけで政治犯として処刑されたのでした。
韓国政府はサンフランシスコ平和条約に参加できません。そこで、1951年7月19日 米国に対して要望書を出します。朝鮮半島にある日本資産を韓国政府および米軍政庁へ移管する。それと竹島、波浪島を韓国領とすることを要求したのです。8月10日にこれらの要望に対しアメリカは「ラスク書簡」にて回答しました。日本資産の移管についてのみを認めますが他の要求は拒否されたのです。ちなみに波浪島は韓国政府が主張する未知の島です。1951年12月23日 李承晩は与党自由党を結成します。1952年1月18日「李承晩ライン」を再び宣言します。サンフランシスコ平和条約が発効され、「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越してでした。海洋資源独占と竹島を占領する目的です。1952年2月12日 米国は韓国政府に対し、「李承晩ライン」を否認すると通告します。李承晩 はこれを無視します。
当時日本はサンフランシスコ平和条約に署名はしていました。しかし、発効3ヶ月前です。主権の回復はまだできておらず自衛手段を一切持ちませんでした。韓国は竹島を不法占拠します。日韓基本条約が結ばれる13年の間で、李承晩ラインや竹島に関わらず、日本の漁船328隻を拿捕します。漁師3929人を拘束、そのうち44人が死傷しました。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれます。僅かな食料と30人が桶1杯の水で1日を過ごす。などの劣悪な抑留生活を強いられていました。両陣営の体面を守るため止められない朝鮮戦争です。1953年1月 米国ではアイゼンハワー大統領が就任します。3月ソ連ではスターリンが死去しました。指導者が交代して状況が一遍します。1953年7月27日 北朝鮮・中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれます。3年間続いた戦争は一時の終結をします。現在も休戦中なのです。
38度線近辺の板門店で調印がおこなわれました。調印者は金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官です。李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しませんでした。「北進統一」に固執したのです。休戦協定を結ばなかったことで韓国は朝鮮戦争の賠償や支援を受けることができません。それで世界一の最貧国から抜け出せないのです。当時の韓国は、自国民を大量粛清しました。国民への言論統制や宣伝工作をおこなっています。国連や米国の勧告も無視します。20万人もの慰安婦で国営売春もしていました。戦地で女性を強制連行して兵士に報酬として与えます。徴兵もおこなう共産主義を元にした軍事独裁国家です。韓国軍も人民解放軍型の軍隊で低収入の代わりに戦地での略奪・強姦が容認されています。民間人も平気で殺害します。
朝鮮戦争での韓国民間人の殺害数は、中朝の軍によるものより、韓国軍の方が多いのです。韓国軍が山村を襲って、それを共匪パルチザンの仕業だと宣伝してます。反共に利用しようとしました。しかしそのような政策自体が韓国で共産主義が広がった理由なのです。そこで捏造歴史で日本を敵対勢力にして反日活動でなんとか国をまとめているのです。中国は1970年頃から海外に向けて宣伝工作を始めます。韓国の大手新聞2紙が「日本軍挺身隊(慰安婦)総数20万人内朝鮮人6~7万人」の虚偽報道をします。私の憶測ですが中国共産党の意向だと思えます。この記事を元にして元毎日新聞記者の千田 夏光が1973年『従軍慰安婦』を刊行しました。韓国軍を日本軍に、李承晩を天皇陛下に置き換えています。はじめから韓国軍の戦争犯罪を日本軍に押し付けるつもりなのです。頭お花畑のできの悪い内容です。
天皇陛下が慰安婦でお金儲けして何に使うのでしょう。韓国で日本の人権団体が強制連行の被害にあった元慰安婦を探し始めるのです。日韓基本条約の時に韓国は慰安婦14万2千人が日本軍に殺害されたと主張しています。韓国内の資料でしょう。私には韓国軍が強制連行して証拠隠滅のために殺害した慰安婦の人数だと思えます。慰安婦被害者の捜索は難航します。休戦後に韓国軍慰安婦は韓国政府を訴えました。しかしマスコミは黙殺します。裁判では証言の信憑性が低いと棄却されます。彼女たちが本当の従軍慰安婦なのです。朝日新聞の従軍慰安婦報道は韓国軍慰安婦を参考に捏造したものです。その目的は日本軍を貶めて、韓国軍の戦争犯罪を隠蔽して共産主義を美化することです。ベトナム戦争を含む韓国軍の民間人虐殺や強姦などの戦争犯罪と韓国の歴史捏造のすべてが本当の従軍慰安婦なのです。(了)