韓国初代大統領

李承晩

資本主義社会の共産独裁者

 李承晩は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国なりました。朝鮮戦争が一段落すると国中に平和だった日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれ出したのです。

 李承晩大統領は保身の為、自国民虐殺等の残虐な支配を糊塗し国民がもつ日本統治時代の郷愁を断ち切る為に

「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」 と国民に説いて自己政権を正当化しました。 

「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いとしました

  日本統治が良い時代と言う国民は他の政治犯と一緒に処刑したのです


 共産思想の独裁者、李承晩の歴史を簡単にたどってみましょう。

 1911年 李氏朝鮮王朝時代の両班出身である李承晩(イ・スンマン)は併合に反対し投獄され、後にアメリカに亡命します。1913年 ハワイに定住します

 1919年4月中国の上海で大韓民国臨時政府の樹立が宣言。 李承晩はワシントンで臨時政府の欧米委員部を設立しています。 

 1945年 朝鮮解放に伴い、李承晩はハワイより朝鮮半島に帰還し親米派の韓国独立運動家として力を蓄えていきます

済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)

 1947年 済州島で南北統一された自主独立国家を訴えるデモを行っていた島民に警察が発砲し島民6名が死亡します。抗議の全島ゼネストが決行されました。李承晩は警察組織と私設の右翼青年団を送り込み白日テロで弾圧します。

 1948年4月3日 済州島島民は弾圧に反発し武装蜂起を起こします。李承晩は 国防警備隊(後の韓国軍)を投入し制圧します。ゲリラ戦で対抗する島民を略奪、強姦、虐殺します。被害者は1万4千~6万人とされています。島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返し帰りの船にのせ海に捨てたと言われています。村は焼かれ多くの犠牲者が出ました。 多くの島民は日本へ密航や逃亡で逃れ在日となったとされています。1948年に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされています。

 当初何故こんなに自国民を虐殺するのか理解できなかったのですが、中国にもある「清野作戦」なのです。ゲリラに利用されないよう一般に島民まで奪い、犯し、虐殺して、焼払い原野にするのです

 1948年8月15日 大韓民国政府樹立を宣言。李承晩は韓国初代大統領に就任します。

麗水・順天事件(れいすい・じゅんてんじけん)

 1948年10月 済州島鎮圧のため出動命令が下った全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、隊内の南労党員が反乱を扇動しクーデターが起きます。地域を巻き込み広範囲の反乱となります。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間で鎮圧しますが残兵は山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続きます。制圧のため「清野作戦」 で非武装の民間人8000名も虐殺されました。 この時も多くの者が日本へ密航や逃亡し在日となったとされています。

 犠牲者は一週間で2976名、行方不明887名、負傷1407名にのぼり、事件の首謀者と幹部152名が軍法会議で死刑となりました。本事件で韓国軍内に多数の南労党員が浸透していることを認知し左翼勢力摘発を始めます。左翼や南労党員の出身者など約4700名あまりが韓国軍から排除されています。後に大統領となる朴正煕もこのとき逮捕され無期懲役を宣告されています

 1948年12月 左翼を摘発すため反国家活動を規制する「国家保安法」を制定します。

対馬侵攻未遂事件

 1949年1月7日 対馬九州を含む李承晩ラインを宣言し戦勝国として米国に対し対馬と九州の引き渡しと朝鮮進駐軍の日本駐留を要求しますがアメリカ軍に激しく叱責されます。

 1949年2月 半島南部で大演習を装って対馬への侵攻の準備を始めますがアメリカ軍が制止したと推測されます。この事が後に韓国の軍事力を大きく下げる原因となります。5月には米軍から李承晩政権への武器供与を停止し在韓米軍は撤退を始め6月には在韓米軍の撤退が完了します。 

 1949年6月 左翼系人物を保護・管理・監視する機関として「国民保導連盟」を設立します。

聞慶虐殺事件(ムンギョンぎゃくさつじけん)

 1949年12月24日 に大韓民国慶尚北道聞慶郡山北面で、共産匪賊に協力したなどとして、韓国陸軍が非武装の女性、子供、老人の88人を虐殺しました。韓国政府は長らく共産匪賊による蛮行だとしてきました。「清野作戦」 です略奪や強姦の強制連行も行っていると推測されます。

 2005年に設立された過去史整理委員会によって2007年6月26日に韓国政府の犯行であったことが明らかとなりました。

朝鮮戦争勃発

 1950年1月 米韓軍事援助相互協定調印されますが、韓国からの軍事支援要求を米軍は拒否します。 

 1950年6月25日 在韓米軍の撤退で軍事的に優位になった北朝鮮軍が朝4時に砲撃を合図とし10万人以上の北朝鮮軍が進軍を開始しました。

 1950年6月27日 深夜1時に中央庁において非常国務会議で「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされます。同時に水原への遷都も決定されます。

保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)

 北朝鮮の蜂起の呼びかけに韓国内の左翼系人物が呼応するのを防ぐため、李承晩は「国民保道連盟」加盟者や収監中の政治犯や民間人などを処刑するよう命じます。命令は韓国全土で韓国軍や韓国警察によって実施され共産主義者の嫌疑をかけられた民間人が裁判なしで虐殺されました。この事件の遺族会の全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書には虐殺された被害者を114万人としています。

 午前3時頃、李承晩は早々にソウルより退避します。

 午前5時頃より開かれた国防首脳会議において、参謀総長は「政府は南に移動しても、軍はソウルを固守する」との決意を披瀝しますが直後に、前線から「今晩持ちこたえることは難しい」という状況報告を受け取るのです。

漢江人道橋爆破事件(かんこうじんどうきょうばくはじけん)

 午前6時に政府が水原への遷都を発表したことで、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知りました。避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥ったのです。

 1950年6月28日午前1時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破されソウルの最終防衛線は崩壊しました。午前1時45分、北朝鮮軍戦車が市内に突入したとの報を受けた参謀総長はただちに漢江橋の爆破する命令残して漢江を渡って始興に向かったのです。

 一方、参謀総長の出発直後に陸軍本部に到着した第2師団長の准将、他2名の将校はこの命令の件を聞き、主力部隊が後退命令を受けないままで戦闘を継続中であることから、部隊を後退させたのちに爆破するように進言します。

 参謀副長もこれに同意し、作戦局長の大佐に橋梁爆破を中止するよう命じます。しかしソウル市内、特に漢江北岸は避難民や将兵によって大混乱に陥っており、道路の通行は極めて困難であり中止命令は作戦指揮所まで伝達されません。

 主力軍と多くの韓国民を北に残し午前2時30分には、約4000名の避難民が渡っていた漢江人道橋は爆破されました。人道橋に続いて3本の鉄道橋(漢江鉄橋)も爆破され、約500~800名と推定される避難民が犠牲となったと言われています。

 背後を遮断され退路失ったことを知った主力部隊は、雪崩のように潰走をはじめ、韓国民 ともども北朝鮮軍に蹂躙され武器や装備は接収されました。国民を見捨て多くの被害を出した作戦でしたが爆薬の不備から鉄道橋2本の爆破が完全でなく残ったため北朝鮮軍の南進を遅らせる事は出来ませんでした。

アメリカ軍の出動と国連軍の苦戦

 1950年6月 国連安保理は韓国を防衛するため必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告しました。6月29日マッカーサーは水原に入り、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめく前線を視察します。韓国軍と派兵を約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻りました。マッカーサーはその後も韓国内には拠点を置かず、東京から専用機で戦線へ出向き、日帰りで戻るという指揮方式を取り続けます。

 7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、西日本に駐留していたイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。

 準備不足で人員と装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けます。大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められます。

 北朝鮮軍は再三に渡り大攻勢を繰り広げ、釜山陥落も危惧される情勢となります。李承晩は日本の山口県に6万人規模の亡命政府を建設出来るよう日本側に準備要請を行っていました。

 追い詰められた国連軍は釜山橋頭堡の戦いを徹底抗戦の覚悟で臨み奮戦し釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めたのです。

仁川上陸作戦(クロマイト作戦) 

 1950年9月15日 マッカーサーの発案で約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功します。ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦(スレッジハンマー作戦)は大成功しソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功します。38度線から300キロ以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗していた北朝鮮軍は補給路を絶たれ敗走を始めます。

 1950年10月1日 李承晩はマッカーサーへの相談もなしに韓国軍に「ただちに北進すべし」という命令をだします。マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると判断していたので韓国軍の独断専行を特に問題とはせずアメリカ軍にも進撃を命じます。

 10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団も38度線を越えて進撃を開始しました。

 10月10日に韓国軍が軍港である元山市を奪取します。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸します。

 10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りし、航空機を降り立った際に

「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面でありました。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していました。

 この頃の国連軍は、至る所で相互の支援や地上偵察の連絡すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに中朝国境の鴨緑江を目指していました。また補給港も遠ざかり補給路は狭く険しく曲がりくねっており補給を困難にさせていたのです。日帰り指揮をとるマッカーサーは地勢や現地の状況を正しく理解していませんでした。

中国人民志願軍参戦

 1950年10月2日 金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を受け取ると、既に介入を決めていた毛沢東は参戦を決意します。抗美援朝義勇軍は、最前線だけで30万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊を編成します。中朝国境付近に集結した中国義勇軍は10月19日から国連軍の空からの偵察を欺くため夜間に山間部を進軍し隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始します。

 中国軍は国連軍の動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていました。中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散する事になります。

 11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始しますが翌25日には、中国軍の方が総攻撃を開始します。韓国軍第2軍団は前回の被害で中国軍との戦闘を極度に恐れており、最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまいました。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散ったと言われています。韓国軍を撃破し数的に優位に成った中国軍は残りの国連軍に対し優位に戦ったのです。

 状況の深刻さを認識したマッカーサーは統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。中国兵は我が軍の全滅を狙っている」と報告します。

 11月28日の夜に東京で主要な司令官を召集し作戦会議が開かれます。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出ませんでしたが翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされます。作戦会議の間にも国連軍の状況は悪化する一方です。

 統合参謀本部のリッジウェイ副参謀長の提言で第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとし、各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行いました。退却した距離は10日で200キロにもなりましたが、撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れました。

 1950年12月5日 制空権奪還で勢いづいた中朝軍は平壌を奪回します。

 1951年1月4日 中朝軍はソウルを再度奪回します。

国民防衛軍事件(こくみんぼうえいぐんじけん)

 1950年12月21日 45%喪失した韓国軍を補充するため李承晩は国民防衛軍法を発効すると「韓国軍人・警察官・公務員・学生に該当しない満年齢17歳以上40歳未満の男子」約40万人を動員し10万の韓国軍人と合わせ50万の将兵達を51個の教育連隊に分け国民防衛軍を編成しました。しかし早急に編成された軍隊であるため予算不足や指揮統制が未熟などの問題を抱えていました。

 1951年1月4日 中朝軍にソウルを再度奪回された韓国軍は前線の後退作戦(1.4後退)を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになります。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のための軍事物資や兵糧を不正に処分・着服していました。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者や凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となったのです。

 この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置されました。人員数を水増しにより食料品費の計上額を20億ウォン水増し、そこから国庫金23億ウォン、糧穀5万2千石が着服・横領されたのです。着服金の一部が李承晩の政治資金として使われたことも判明し、李始栄副大統領と、事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任しました。

マシュー・リッジウェイの反撃

 12月23日 第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡します。後任として統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長が承認されます。自信を失っていたマッカーサーは指揮をリッジウェイに託します。12月26日 リッジウェイは朝鮮半島入りし、威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じます。

 1951年1月25日 リッジウェイ中将の戦略は「確実に敵戦力を掌握し面で押すことで設定したラインへ押し込む」というものです。威力偵察で敵の場所と戦力を把握し北へ押し込んでいきます。強力な抵抗を受けた場合即座に援護を向かわせ中朝軍を撤退させます。

 3月7日、アメリカの第9軍団と第10軍団、韓国の第1軍団と第3軍団が北進を開始しました。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回しました。

 3月14日には韓国第1師団が漢江を渡河し再びソウルを奪回したのです。

 この時は韓国の首脳陣は帰還せず臨時首都は釜山市でした。戦争は多くの命を無駄に奪いほぼ終結します。

膠着状態とマッカーサーの解任

 中国軍は参戦当初は優勢でしたが、この頃には度重なる戦闘で経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍りはじめました。

 それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回しましたが、戦況は38度線付近で膠着状態となります。

 中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築して抵抗します。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕しました。

 1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていました。これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を勝手に発表します。

 マッカーサーは、満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事、さらに中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入や原子爆弾の使用などのを提言します。

 マッカーサーの暴走により戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にしては第三次世界大戦に発展する可能性もあります。

 4月11日にトルーマン大統領はマッカーサーをすべての軍の地位から解任します。後任としてアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。

特殊慰安隊の創設

 1950年12月 李承晩は主に国連軍から外貨を稼ぐ目的で韓国軍に慰安婦部隊を創設します。違法の国家運営売春です。売春宿形式の固定式と、ドラム缶に一人ずつ詰めて戦線に送り夜になと営業する移動式の形式がありました。ドラム缶に詰められ軍と共に動く慰安婦は「従軍慰安婦」と呼ばれました。また陸軍にあった「特殊挺身隊」という組織に強制連行の少女が連れ込まれ部隊に一定人数を「第五補給品」して補給し性奴隷にしたと言う話もあります。

居昌・山清咸陽虐殺事件 

 韓国第11師団は太白山脈や智異山付近の南部軍 ゲリラ討伐を任じられます。ゲリラ討伐のために清野作戦を実施します。

 1951年2月7日に韓国陸軍第11師団第9連隊第3大隊 はゲリラに関わっている嫌疑で南部軍 山清郡今西面芳谷里佳峴村に進撃し家屋を焼き払い。金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃撃を加え虐殺します。

 さらに約2キロ離れた芳谷村の住民212名にも銃撃を加え、13時半に続けて咸陽郡休川面棟江里で60名を虐殺しました。さらに花渓里、自恵里と咸陽郡柳林面の西州里・蓀谷里・池谷村で講演を開催するという口実で住民を西州里トンチョンガン砂礫地に集めて16時半頃、軍警察の家族除く住民310名を虐殺しました。全体の犠牲は12の村々の住民計705名になります。 

 2月9日から2月11日にかけて韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で第3大隊は居昌郡から一人残らず共匪パルチザンを殲滅するためとして住民719人(15歳以上334人と15歳未満385人)を虐殺しました。韓国軍は、韓国警察の家族までも除外することなく虐殺しました。

 自国民を反日へ洗脳

 1951年12月23日 李承晩大統領は保身のため与党自由党を結成し権力強化を図りあらゆる不正や暴力で権力にしがみつきます。 

 李承晩は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国なりました。朝鮮戦争が一段落すると国中に平和だった日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれ出したのです。

 李承 晩大統領は保身の為、自国民虐殺等の残虐な支配を糊塗し国民がもつ日本統治時代の郷愁を断ち切る為に

「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」 と国民に説いて自己政権を正当化しました。 

「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いとしました。

 日本統治時代の真実を語る者を「政治犯」として処刑し、強烈な反日教育で国民に日本への憎悪を植え付けたのです。

李承晩ライン

 1951年7月19日 韓国政府はアメリカ対し、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすることを要求する要望書を出しました。8月10日にこれらの要望に対しアメリカは「ラスク書簡」にて回答。竹島、波浪島を韓国領 とすることを拒否されます。

 1952年1月18日 李承晩は海洋資源独占と竹島を占領するため李承晩ラインを再び宣言します。境界線を設定した主目的は日韓両国間の平和維持にあると発表し、韓国では「平和線」と宣言されました。

 1952年2月12日 、アメリカは、韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告しますが、李承晩 はこれを無視します。

 当時日本は主権の回復はまだ出来ておらず自衛の手段を一切持ちませんでした。韓国はこの境界線に基づき竹島を不法占拠し、日韓基本条約が結ばれる13年の間で日本の漁船328隻を拿捕し、漁師3929人を拘束、そのうち44人が死傷しました。

 抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられていました。

釜山政治波動(プサンせいじはどう)

 1952年5月~7月、大韓民国の臨時首都となっていた釜山市で起こった政変です。

 国会議員による間接選挙で初代大統領に選出れた李承晩の任期は4年です。1948年7月選出され1952年8月で満了することになっていました。しかし2年前の第2代国会議員選挙では反李承晩勢力が多数派を占めていた上に、戦争中に発覚した行政の無策国民防衛軍事件居昌良民虐殺事件など不正腐敗が発覚したことで再選は絶望視されていました。

 そのため李承晩は、大統領の選挙制度を国会議員による間接選挙から国民による直接選挙へと改正することで、自身の再選を確実なものにしようと改憲案を国会に提出します。しかし野党が多数の国会で改憲案は否決されました。

 これに対し李承晩は国会解散要求する官製デモを展開し、釜山一円への戒厳令が宣布します。国会議員を検挙するなど改憲反対派を弾圧します。

 7月4日、大統領の直接選挙制を軸とする憲法改正案、所謂「抜粋改憲案」がほぼ全会一致で可決されます。

 8月5日直接選挙制によって実施された大統領選挙で 李承晩大統領は再選を果たすのです。 

 朝鮮戦争休戦協定

 1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が一遍します。

 1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中であります。

 調印者は金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しませんでした。

 四捨五入改憲(ししゃごにゅうかいけん)

 1954年当時の大韓民国憲法では、大統領の任期は1期4年で再任は1回のみでした。李承晩大統領は任期が満了する1956年には退かなければならなかったのです。しかし終身大統領を目論んでいた李承晩は、憲法を改正して再任制限を撤廃することを目指しました。

 1954年5月20日第3代国会議員総選挙において大統領与党である自由党は改憲に必要な3分の2議席を確保するため、警察組織を利用した選挙干渉や不正選挙を公然と展開します。しかし与党自由党の獲得議席は総議席203議席中99議席に留まります。無所属議員を入党させて第3代国会開会(6月9日)後に136議席を確保し9月6日に自由党議員135名の連署による憲法改正案が国会に提出されます。

 11月27日に改憲案の票決が行われました。結果賛成135票で改憲に必要な136票に1票不足したため、国会副議長は改憲案の否決を宣言します。

 この結果に慌てた自由党は、翌28日に緊急の議員総会を開いた上で

「改憲に必要な203票の3分の2の正確な数値は"135.3333..."であり、自然人を整数では無い小数点以下まで分けることは出来ないから、四捨五入の論理によって、もっとも近い値の整数である135票を得た改憲案は可決されたと見なすべきであり、国会副議長の否決宣言は錯誤による物である」との声明を発表し翌29日の国会で国会副議長が先日の否決宣言を撤回して改憲の可決を宣言します。

李承晩大統領、官製民意により3選

 1956年5月15日大統領選挙で李承晩大統領に3度目の当選を果たします。

 李承晩は当初、「自分が3選することは民主主義に反するので、出馬しない」と声明を発表しました。自由党と警察は官民を動員して李承晩大統領の出馬を求める官製デモを組織します。李承晩は「民意により再出馬する」と声明を発表します。

 反李承晩勢力が結集して結成された保守系の新党である民主党は、1956年3月28日に正大統領候補に申翼熙、副大統領候補に張勉を指名します。他勢力として進歩党創立準備委員会を結成し、3月31日に大統領候補に曺奉岩を、副大統領候補に朴己出をそれぞれ指名しました。これらの候補者以外にも数名が立候補しましたが、実質的には自由党と民主党の一騎討ちの選挙戦となりました。

 民主党は「もう生きられない代えてみよう」のスローガンを掲げ、警察や官吏による選挙妨害にもかかわらず、 ソウル特別市内を流れる漢江河川敷で行なわれた選挙演説会では30万を超える聴衆が参加するなど、ソウルなど大都市部を中心に李承晩の独裁政治に不満を持っていた国民からの支持を集め、政権交代は間近と見られていました。

 しかし、申翼熙大統領候補が全羅北道へ選挙遊説するために乗車していた列車の車中、脳溢血の発作を起こし5月5日に急死します。李承晩大統領の再選は確実なものとなりました。

進歩党事件(しんぽとうじけん)

 1954年11月10日、曺奉岩を中心とする勢力は、社会主義的綱領及び政策を掲げた進歩党を結成。「革新政治の実現」「収奪無き経済体制の確立」「血を流さない平和方式による祖国の統一」という当時の韓国においては斬新なスローガンを掲げて各階層の支持を受けつつ徐々に組織を拡大し活発な活動を展開しました。1956年5月大統領選では李承晩に対し善戦します。

 1958年1月11日夜、警察は進歩党委員長曺奉岩、副委員長朴己出、金達鎬、幹事長尹吉重など党幹部10名余を国家保安法違反容疑で逮捕します。そして同年2月20日、陸軍特務部隊は、北朝鮮のスパイである梁明山が曺奉岩として接触して彼に朝鮮労働党の政治資金を渡したと発表します。

 2月25日には進歩党が北朝鮮の主張と同じ南北統一総選挙の実施を主張していることや、北朝鮮スパイとの接触などを理由に政党登録が政府によって取り消され、5月に予定されていた第四代国会議員総選挙を目前にして進歩党は非合法とされました。

 第一審で曺奉岩に懲役5年の判決が宣告されたものの国家転覆罪については無罪となります。彼以外の進歩党幹部全員に無罪判決が下されたました。この判決に対し自由党政権は「反共青年決起大会」と書かれたプラカードを掲げ、「容共判事柳秉震を打倒せよ」「曺奉岩一党にスパイ罪を適用して処罰せよ」等と叫ぶ官製デモを行いました。

 第二審と大法院では曺奉岩と梁明山の両被告に対してそれぞれスパイ容疑で死刑が宣告、それ以外の被告については無罪が宣告されます。

 1959年7月30日曺奉岩被告の再審請求も棄却され翌31日電撃的に死刑が執行されます。

 事件から40年が経過した1999年8月、当時、事件の捜査にあたっていた捜査員の一人が「事件は当局によって捏造されたものである」と新聞社に証言します。それによると当時ソウル市警察局の捜査要員は「当時の大統領官邸から、曹奉岩を捕まえなければ李承晩大統領の再当選が不可能なので、どんな手を使ってでも捕まえろ、という指示を受けた」と証言します。李承晩の工作と考えられていた進歩党事件の真相が捜査関係者の証言で改めて裏付けられました。

在日朝鮮人の帰還事業

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本国主権回復します。

 李承晩は日韓政府間協定が結ばれていないとして在日朝鮮人の引取りを拒否します。韓国は朝鮮戦争による荒廃からの復興が遅れており、かつ農村部を中心に過剰な人口を抱えてました。

 日本に暮らす在日朝鮮人は60万以上に及びました。1956年(昭和31年)の生活保護費の削減と1957年~1958年にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃して生活に困窮する者も多かったのです。

 1956年北朝鮮の金日成国家主席は朝鮮労働党第三次大会で在日朝鮮人学生を衣食住・学費の全てを無償で北朝鮮へ受け入れると発表し、在日朝鮮人の帰国を呼びかけたます。声明を受けて、日本国内で朝鮮総連は帰国促進運動を繰り広げます。北朝鮮政府は日本政府との対話チャンネルを確保し、日朝国交正常化のきっかけとしたいという思惑があったのです。日本と韓国との国交正常化を牽制する目的もあったと思えます。事実、在日朝鮮人の「北送」を理由として、日韓会談は数度中断しています。

 当時、ソ連の支援をうけ復興を果たし生活の心配のない社会主義国の北朝鮮とアジアの最貧国であり独裁体制で政治不安のある資本主義国韓国の体制間競争は北朝鮮が優位にありました。

 朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・マスコミ各社が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促しました。特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたとされています。

 日本と北朝鮮には国交が存在しませんでしたので実務は日朝両国の赤十字社によって行われました。日本においては新潟日赤センターが拠点とされました。

 1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航し、数度の中断を含みながら1984年まで続きました。93,340人が北朝鮮へ渡航し、その内うち6,839人は日本人妻や保護する子女といった日本国籍保持者でした。帰国船の費用は北朝鮮政府が負担し、事業の後期には初代万景峰号が使われています。日朝間を頻繁に往来する帰国船は、北朝鮮による朝鮮総連への指導・連絡や諜報活動として日本や韓国への工作員送り込みにも利用されていた言われています。

北韓送還阻止工作員の結成

 1959年8月、韓国の李承晩大統領は

「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示します。

 1959年8月、カルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結したことに対し韓国民団 (在日本大韓民国居留民団)は北送反対闘争委員会を結成しました。8月25日には韓国民団員たちが日本赤十字本社に乱入します。

 李承晩在日朝鮮人引取りを拒否していて居住地選択の自由という人道主義に反すると国際社会から非難されていました。北朝鮮の国力が大きくなり韓国より国際的評価が上がるのも面白くなかったのでしょう。危機感を募らせた李承晩日本に工作員を送り込み北韓送還阻止工作を行うことを決定します。

 1959年9月、韓国政府は国内の在日義勇兵(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために日本に潜入して妨害工作活動を行う工作員となるよう要請したします。韓国政府は在日義勇兵41人と軍予備役将校と警察試験合格者24名、さらに日本国内で組織した工作員も含め北韓送還阻止工作員を結成しました。

1959年9月末、ソウル江北区牛耳洞の訓練所で「破壊班」「説得班」「要人拉致班」に分かれて訓練が行われます。

 1959年12月初旬、潜入アジトを設けるために先発隊が慶尚北道慶州市甘浦港から船員に偽装して貿易船に乗り込み、ボートに乗り換えて小倉と関東で活動する部隊ごとに海岸から上陸しました。工作事件の舞台となる新潟県に隣接する富山県にはテロ部隊の本部がおかれたのです。

 韓国政府のテロ計画は主に次の4点を任務としていました。

 在日朝鮮人帰国事業担当の日本側要員の暗殺。

 日本赤十字社の破壊。

 新潟港に通じる鉄道線路を破壊。

 韓国民団に諜報活動員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界へ浸透する。

新潟日赤センター爆破未遂事件

 1959年12月4日、警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求めます。工作員の鞄の中からは雷管を装填した4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、爆発物取締罰則違反の現行犯で逮捕されました。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1ℓ缶4本を隠したウィスキー箱が発見され、工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが判明しました。

 この時逮捕された工作員は、日本国籍を取得した在日韓国人と在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した韓国治安局所属の在日朝鮮人でした。在日韓国人は事件前には新聞記者と自称して日本赤十字社本部の周辺を調べており、日本赤十字社からは出入り禁止とされ怪しまれていたのです。工作事件は領事館の金永煥三等書記官と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとっていたことも明らかになりあました。警察は韓国の工作員を次々と摘発しました。

 1959年12月7日には釜山港から神戸港に上陸しようとしていた工作員を載せた大栄号が関門海峡で海上保安官に臨検されて強制停泊させられた後に、韓国に引き返しています。

 1959年12月12日には巨済島を出発した韓国工作員を載せた明星号が下関近海で暴風に遭い沈没し12名が死亡しました。が12月13日巨済島を出航した別の工作船が広島県呉港から工作員を潜入させています。

 1959年12月下旬には在日義勇兵として朝鮮戦争に参加した後、再び日本に渡航して大阪府に住んでいた男性のもとに、韓国に帰還したままであった在日義勇兵の友人が8人の男を引き連れて現れると、そのまま居候するようになり、夜にはラジオで韓国から送られてくる暗号を受信するなどして工作活動を開始しました。工作資金2000ドルも送付されてきたのでした。

 1960年4月19日に四月革命が起こり、李承晩大統領が失脚すると工作活動は下火となりました。5月3日、山口県下関彦島江ノ浦桟橋から鮮魚運搬船で韓国に密出国しようとしていた韓国工作員24名が逮捕されました。工作員たちは先に神戸、長崎、下関付近から密入国していたのです。5月10日、警視庁外事課が韓国工作員を出入国管理法違反で逮捕。工作員は李承晩大統領直属の景武台機関出身で在日同胞の北朝鮮帰国阻止決死隊の隊員でした。

背水の大統領選挙

 1960年5月には正副大統領の任期満了に伴って大統領選が行われる予定でした。

 李承晩政権与党である自由党は12年間にも渡る独裁と相次ぐ失政によって、国民の支持を完全に失っていました。与党自由党は政権維持のためにあらゆる不正手段を使わざるを得ないところまで追い込まれていました。この選挙で正副両大統領選挙で勝利することに自由党は全力を注ぎ、今までにまして官憲や暴漢を動員した不正選挙を展開しました。

 最初に自由党は有力野党である民主党を封じるために早期選挙を計画しました。

 民主党は大統領候補に趙炳玉を副大統領候補には現職副大統領である張勉を指名しました。しかし趙炳玉は病気のため1960年1月に渡米します。李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定します。これに対して民主党は

「3月選挙は選挙慣例に反している上に、趙炳玉候補が病気治療中であるにもかかわらず選挙を早めるのは、フェアプレーの精神に反している」旨の公開質問状を李承晩大統領に提出して回答を求めますが、3月選挙方針を変えることは出来ないとして強硬姿勢を貫かれます。

 民主党の趙炳玉候補は、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝します。大統領選挙は李承晩の当選が事実上確定しました。与党自由党は、副大統領候補の李起鵬を当選させることが最重要課題となったのです。大統領候補を失った民主党は、大統領候補が一名のみの場合は、その得票数が全有権者数の三分の一以上でなければならない選挙法の規定を逆手にとって、李承晩の得票数を三分の一未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、現職副大統領である張勉を大統領候補として再選挙に持ち込む戦術を展開しました。

やりすぎた不正選挙

 自由党は、官憲を動員した徹底的な大規模不正選挙を計画しました。公務員による選挙運動網を作って、警察がこれを監視する体制を採ったのです。そのため内務部(現大韓民国行政安全部)では「公務員親睦会」を組織させ、警察にはいかなる手法を使ってでも自由党候補を当選させるように指示しました。自然棄権票、選挙人名簿に虚偽記入された幽霊票、金銭で買収して棄権するように工作した票などを有権者の4割程度作り、自由党票として投函させる工作をしたのです。

 3月15日の投票日には、自由党は全国で腕章部隊や暴漢などを動員して野党側の投票立会人を投票所に立ち入らせないように妨害、3人組や9人組等による公開投票を公然と実施し投票箱の交換や野党票の抜き取り、与党票の水増し集計、等を行いました。その結果、少なくない地域で、李承晩李起鵬両候補の得票率が95~99%にまで達したため慌てて各道知事や、警察局長へ得票率を下げるように指示する事になりました。

 このような大規模不正に対し、民主党は投票締め切り30分前に本選挙が不正選挙であり無効であることを宣言します。

 3月18日、中央選挙管理委員会は李承晩が大統領に当選、李起鵬が副大統領に当選したことを発表します。同日、国会でも正副大統領の選挙結果を承認して李承晩李起鵬がそれぞれ正大統領と副大統領に当選したことを宣言しましたが民主党は先に述べたように本選挙が不法選挙であると宣言、李承晩大統領の即時辞任を要求して国会から退場していました。

3月15日馬山事件

 3月15日の大統領選挙投票日当日、慶尚南道馬山で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こしたました。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲してデモ鎮圧を図り、8名が死亡、50名余が負傷します。

 このデモに参加して行方不明となっていた馬山商業高校学生の金朱烈が27日後の4月11日、馬山沖の海上で目に催涙弾が突き刺さった遺体となって発見されました。この事をきっかけに学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高待ったのです。

 4月18日には首都ソウル市においても高麗大学校の学生約3,500名が馬山事件で逮捕された学生の釈放と学園の自由などを求めて市街地をデモ行進しました。その後にデモ隊は国会議事堂前で座り込みをした後、午後7時頃には大学に戻り始めていたのです。李承晩は私設右翼団体100名余りにデモ隊を襲わせたのです。約20名余りの学生が重軽傷を負う事態となりました。学生デモに対する襲撃は学生や市民の強い反発を招く結果となります。

四月革命(しがつかくめい)

 1960年4月19日 ソウル大学を初め延世大学校や中央大学校などソウル市内の大学生数万名が決起し、デモ行進を行いました。そして同日正午には、大統領官邸である景武台を包囲し、一部のデモ隊は副大統領候補で李承晩大統領の側近である李起鵬の自宅を占拠します。デモには中学高校生や一部市民も参加し午後2時半頃までにはデモ隊の規模は20万名余りにふくれあがり、李承晩大統領の退陣と不正選挙無効のスローガンを叫びます。

 デモ隊に対し警察は、景武台や中央庁付近で無差別発砲を行い多数の死傷者が出ました。これに激高した一部のデモ隊は市内各所の警察官派出所、与党系の新聞であるソウル新聞社屋、反共会館(3・15不正選挙において前衛隊の役割を担った大韓反共青年団の本部が置かれていた)を焼打しました。デモはソウルのみならず全国各地に波及し、釜山や光州、大邱、清州、仁川など各地方都市でもそれぞれ数千名余りの学生デモ隊が警官隊と衝突しました。

 全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人に登りました。これに対し李承晩は19日午後5時を期してソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告します。しかし軍は政治的中立を維持しデモ隊鎮圧のための積極的行動は行われませでした。 

 4月21日、国務委員(閣僚)と自由党党務委員が4・19デモの責任を取る形で一括して辞表を提出します。そして23日には副大統領選挙の当選者である李起鵬が当選辞退を考慮する旨を表明、同じ日には民主党張勉副大統領が辞任を表明します。

 こうした状況下の4月25日、ソウル大学に全国27大学の教授400余名が集結し、大統領と国会議員、最高裁判事の辞任、正副大統領再選挙の実施、不正選挙の処断を求める時局宣言文を採択後「4.19義挙で倒れた学生の血に報いよ」という横断幕を掲げて、デモ行進を行っいました。学生と市民は「再選挙の実施」「現政権の退陣」などのスローガンを叫びながらデモ行進を開始しました。その規模は数万名にふくれあがり、世宗路、国会議事堂そして光化門一帯を埋め尽くしたのです。そしてパゴダ公園に立てられていた李承晩大統領の銅像がデモ隊によって引きずり倒されたのです。

 こうした事態に国防部長官金貞烈や許政外相が李承晩大統領に対して辞任を説得、26日に宋尭讃戒厳司令官(陸軍参謀総長)の仲介によって実現した大統領とデモ隊代表による会談の場において下野することを表明、同日午前10時頃にラジオを通じて辞任を発表しました。そして国会では午後緊急本会議を開き李承晩大統領の下野を要求する決議案を満場一致で可決、翌27日に李承晩は公報室を通じて辞任を正式発表し国会に辞表を提出、直ちに受理され、12年間の独裁にやっと幕が下ろされたのです。

 李承晩は5月29日にハワイへ亡命し1965年7月19日に90歳で客死し生涯をおえます。

 形容しがたい独裁者、凄まじい自国民虐殺、異常な権力への執着、でも彼は一般的な朝鮮人なのだと思えるのです。