韓国の黒歴史

韓国の黒歴史

 朝日新聞が日本軍慰安婦を捏造した目的は、韓国の戦争犯罪を日本軍に付け替えることで、日本による朝鮮半島への被害の捏造して、韓国の犯した戦争犯罪や人道に対する罪を隠蔽することです。現在も韓国で行われている抗日教育・運動を理解するには、今の韓国となったの建国時の歴史を知る必要があります。

韓国の歴史を知らなければ、韓国の抗日活動を理解することはできないのです。

朝鮮半島分断と済州島弾圧

 1910年8月22日に韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印されました。大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有しました。1911年に李氏朝鮮王朝時代の貴族階級、両班出身で併合に反対し投獄され、後にアメリカ大学で学んだ李承晩(リ・ショウバン)はアメリカのハワイに亡命して定住します。1919年この頃から日本は朝鮮半島からの渡航者があまりに多く、朝鮮半島が労働力不足になる事態を抑えるために日本本国への渡航を制限していきます。しかし、密航事件が多発して1934年には密航取締まり強化を閣議決定しました。戦前日本に出稼ぎに来ていた朝鮮系日本人は約100万人、不法渡航は20〜30万人と発表されています。1939年頃には『日中戦争』の出兵で日本国内の労働力が低下しました。そこで渡航制限が解除されます。太平洋戦争終戦時には朝鮮系日本人の渡航者は約200万人いたと言われています。

 1910年 日本政府はアメリカのワシントンに、米国でも人気が高かった桜を苗木で2,000本寄贈します。しかし、害虫による病気が発生して焼却を余儀なくされました。日本は再度寄贈を計画して、本国内の桜を接ぎ木することで、害虫に強い桜の苗木を育てる事にしました。1912年 日本政府が用意した3,020本の桜の苗木は、横浜港から出港しアメリカに無事到着しました。一本も病気がない苗木に当時の検査官も感嘆の声を上げたそうです。1919年4月 中国の上海で大韓民国臨時政府の樹立が宣言されました。李承晩はワシントンで臨時政府の欧米委員部を設立しています。この時ワシントンの桜並木を見て説明を聞いた李承晩は、根拠もなく「日本は本国の桜が害虫でダメだったので、済州島から桜を奪ってアメリカに寄贈した」と言い出すのです。この話は韓国では最近まで信じられていました。

 1945年8月太平洋戦争終戦間際にソ連は満州国に出兵します。日ソ中立条約を破り日本領だった朝鮮半島にも兵を送り込みます。アメリカはソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案します。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍が占領しました。10月に日本の降伏による朝鮮半島解放に伴い、李承晩はアメリカ軍直接統治下の朝鮮半島に帰還します。元両班の立場と在韓米軍とのパイプを利用して親米派の韓国独立運動家として権力を蓄えていきます。1947年3月1日、南労党(南朝鮮労働党)支持者の多い済州島、済州市内で南北統一された自主独立国家を訴えるデモを行っていた島民に対して南朝鮮警察が発砲し島民6名が死亡します。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行されました。

 李承晩の一派は南労党支持者への見せしめの意味も込め 略奪・暴行・強姦を行う権利を与えられた右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み白日テロを行い島民を弾圧します。警察も白日テロを黙認して取り締まりしません。1948年4月3日 済州島島民の不満を背景にして、南側単独選挙を行う事に反対する南労党員は武装蜂起を起こします。『済州島四・三事件』です。李承晩は軍を投入して制圧します。残存勢力は遊撃隊員としてゲリラ戦で対抗するようになりました。軍の治安部隊は潜伏している遊撃隊員に協力すると言う理由で無差別に島民の処刑・粛清を行いました。

 島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦・虐待を繰り返し、帰りの船にまで連れ込んで最終的に海に捨てて惨殺したと言われています。村は焼かれて多くの犠牲者が出ました。朝鮮戦争が始まると、女性の強制連行も行われました。韓国政府は犠牲者数を1万4千〜3万人としていますが、犠牲者数は6万人以上だとする研究者もいます。大阪は済州島と浅からぬ因縁の土地です。平野川治水工事に伴い、済州島から多くの朝鮮系日本人が大阪に働きに来ていました。治水工事の終了後もそのまま帰らずに暮らし始めた島民が多いのです。多くの島民は大阪の元島民を頼り、密航・逃亡してきたと言われています。1948年に28万人いた島民は、制圧完了の1957年には3万人弱にまで激減したのです。

 1948年8月15日 朝鮮半島南部単独で大韓民国政府樹立を宣言。李承晩は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国となりました。李承晩は韓国初代大統領に就任します。12月1日 韓国の国家保安を脅かすような反国家活動を規制する「国家保安法」を制定します。李承晩自身は共産主義者でしたが、左翼思想を取り締まったのです。1949年1月7日 対馬と九州を含む李承晩ラインを宣言して、戦勝国として朝鮮進駐軍が日本へ駐留して、日本から対馬と九州を韓国の領土としてもらう権利があると主張して、在韓米軍に激しく叱責されます。しかしそれでも、2月に韓国軍の大演習を装って対馬への侵攻を実行しようとします。在韓米軍が阻止しましたが、米国統治下の日本に出兵しようとしたことに激怒したマッカーサーは、韓国軍への武器供与を停止して、在韓米軍の撤退を決定します。5月から始めて6月には在韓米軍が完全に撤退したのです。

朝鮮戦争勃発

 1949年6月 左翼系人物を管理・監視する機関として『国民保導連盟』を設立します。左翼思想者でも国民保導連盟に登録して、愛国者に改心して国の監視を受ける事で、過去の活動での処罰はされず、配給も有利に受けられ、国による就職のあっせんもあると言う事で、多くの韓国国民が配給目当てで登録します。1950年6月25日 在韓米軍が撤退した韓国に比べて、ソ連からの武器供与をうけて軍事的に優位になった北朝鮮軍が、朝4時の砲撃を合図にして、10万人以上の北朝鮮兵が進軍を開始しました。『朝鮮戦争』が勃発したのです。6月27日 午前1時に韓国中央庁内の非常国務会議で「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされますが、同時に矛盾する水原への遷都も決定されます。李承晩は午前3時には国民保導連盟の登録者が北朝鮮軍に呼応するのを恐れ、虐殺するように命じて、自分は真っ先にソウルから逃げ出します。ソウル市民に遷都の情報が知らされたのはその3時間後の午前6時でした。

 6月28日午前1時頃、北朝鮮の戦車隊が市内に侵入すると、まだ主力部隊が交戦しているにも関わらず、午前2時30分に北朝鮮軍の南進を遅らせるため、約4,000人の避難民で溢れる漢江人道橋と3本の鉄道橋を韓国軍が爆破したのです。『漢江人道橋爆破事件』です。多くの被害を出した作戦でしたが、爆薬の不備から鉄道橋2本の爆破が完全でなく残ったため北朝鮮軍の南進を遅らせる事は出来ませんでした。1950年6月29日 マッカーサーは水原に入り、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめく前線を視察します。韓国軍に派兵を約束してその日の午後5時に本拠地としていた東京へ戻りました。マッカーサーはその後も韓国内には拠点を置かず、東京から専用機で戦線へ出向き、日帰りで戻るという指揮方式を取り続けました。

 7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、西日本に駐留していたイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。準備不足で人員と装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けます。大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められます。北朝鮮軍は再三に渡り大攻勢を繰り広げ、釜山陥落も危惧される情勢となります。李承晩は日本の山口県に6万人規模の亡命政府を建設出来るよう日本側に準備要請を行っていました。追い詰められた国連軍は釜山橋頭堡の戦いを徹底抗戦の覚悟で臨み奮戦し、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めたのです。

 9月15日 マッカーサーの発案で約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる『仁川上陸作戦』(クロマイト作戦)に成功します。ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦(スレッジハンマー作戦)は大成功しソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功します。しかし、この作戦は韓国内に多くの共産ゲリラを残すことにもなったのです。

 10月1日 李承晩はマッカーサーへの相談もなしに韓国軍に「ただちに北進すべし」という命令をだします。マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると判断していたので韓国軍の独断専行を特に問題とはせずアメリカ軍にも進撃を命じます。10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団も38度線を越えて進撃を開始しました。10月10日に韓国軍が軍港である元山市を占領します。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸します。10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りし、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程、得意満面でありました。

 平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していました。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援や地上偵察の連絡すらできず、多くの異なったルートを辿り、バラバラに中朝国境の鴨緑江を目指していました。また補給港も遠ざかり補給路は狭く険しく曲がりくねっており補給を困難にさせていたのです。日帰りで指揮をとっていたマッカーサーは地勢や現地の状況を正しく理解していませんでした。

抗美援朝義勇軍

 1950年10月2日 金日成より毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を受け取ると毛沢東は参戦を決意します。『抗美援朝義勇軍』は最前線だけで30万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊を編成します。ソ連は航空戦力の支援を約束します。中朝国境付近に集結した中国義勇軍は10月19日から国連軍の空からの偵察を欺くため夜間に山間部を進軍し隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への侵入を開始します。中国軍は国連軍の動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていました。中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり国連軍は広範囲に分散する事になります。

 11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始します。韓国軍の一部が反撃により被害を受けました。翌25日には、中国軍の方が総攻撃を開始します。韓国軍第2軍団は前回の被害で戦闘を極度に恐れており、最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまいました。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散ったと言われています。中国軍は軍として未熟な韓国軍を意図して狙って撃破したのです。韓国軍が消滅したことで、中国軍は残りの国連軍に対し優位に戦ったのです。

 状況の深刻さを認識したマッカーサーは統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。中国兵は我が軍の全滅を狙っている」と報告します。11月28日の夜に東京で主要な司令官を召集し作戦会議が開かれます。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたてたので、中々結論が出ませんでした。しかし、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされます。作戦会議の間も国連軍の状況は悪化する一方です。

 統合参謀本部のリッジウェイ副参謀長の提言で、第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとします。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行いました。退却した距離は10日で200キロにもなりましたが、撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れました。12月5日 制空権奪還で勢いづいた中朝軍は平壌を奪還します。1951年1月4日には中朝軍はソウルを再度占領したのです。

 1950年12月21日 45%喪失した韓国軍を補充するため李承晩は国民防衛軍法を発効すると「韓国軍人・警察官・公務員・学生に該当しない満年齢17歳以上40歳未満の男子」約40万人を動員し10万の韓国軍人と合わせ50万の将兵達を51個の教育連隊に分け国民防衛軍を編成しました。早急に編成された軍隊であるため予算不足や指揮統制が未熟などの問題を抱えていました。中朝軍にソウルを再度占領された韓国軍は前線の後退作戦(1.4後退)を敢行します。国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになります。しかし、李承晩や軍幹部は国民防衛軍のための軍事物資や兵糧を不正に処分・着服していました。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者や凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となったのです。『国民防衛軍事件』です。

 李承晩は1948年に韓国で公娼を禁じる法律を制定したのですが、1950年の朝鮮戦争開始以後から兵士の戦意維持のために補給品として女性の支給を許可します。朝鮮戦争中の自国民の虐殺時や北朝鮮から女性を強制連行していたと推測できます。戦地で強姦して殺害するより、強制連行して兵士に報酬として与えた方が良いと考えたのでしょう。陸軍には「特殊挺身隊」という組織が創設されて、部隊に一定人数の女性を「第五補給品」として割り当てて兵士の性奴隷にしていたのです。1950年12月 李承晩は主に国連軍から外貨を稼ぐ目的で国家管理の売春も始めます。「洋公主 」と呼ばれていました。売春宿形式の固定式と「従軍慰安婦」と呼ばれるドラム缶状の容器に一人ずつ娼婦を詰めて戦線に運び、夜になると営業する移動式の形式がありました。『特殊慰安隊』です。

 1950年12月23日 第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡します。後任として統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長が承認されます。自信を失っていたマッカーサーは指揮をリッジウェイに託します。12月26日 リッジウェイは朝鮮半島入りし、威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じます。リッジウェイ中将の戦略は、確実に敵戦力を掌握し面で押すことで設定したラインへ押し込むというものです。威力偵察で敵の場所と戦力を把握して、北へと押し込んでいきます。強力な抵抗を受けた場合即座に援護を向かわせ中朝軍を撤退させます。

 1951年3月7日にアメリカの第9軍団と第10軍団、韓国の第1軍団と第3軍団が北進を開始しました。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回しました。中国軍は参戦当初は優勢でしたが、この頃には度重なる戦闘で経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍りはじめました。それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回しましたが、戦況は38度線付近で膠着状態となります。

 中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築して抵抗しました。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕しました。1951年3月24日にトルーマンは「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていました。これを事前に察知したマッカーサーは「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を勝手に発表します。

 マッカーサーは、満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事、さらに中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入や原子爆弾の使用などを提言します。戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大すると、ソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にして、第三次世界大戦に発展する可能性もあります。4月11日にトルーマン大統領はマッカーサーをすべての軍の地位から解任します。後任としてマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。

 1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案し停戦が模索されます。1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されましたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航しました。1953年に入るとアメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が一変します。1953年7月27日に38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時休戦となります。

 調印者は金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しませんでした。そのため韓国は戦争賠償も経済支援も受けられず、世界一の最貧困国になってしまったのです。

李承晩の独裁

 1951年頃には朝鮮戦争は膠着状態で一段落します。すると韓国中に平和だった日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれ出したのです。李承 晩大統領は自身の政権の正統性をたもち、国民がもつ日本統治時代の郷愁を断ち切る為に「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」 と歴史を捏造して自己政権を正当化しました。「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いと国民に説いて、抗日活動をさせることで国民の団結と愛国心を保ったのです。日本統治時代は良かったと語るだけで政治犯として処刑されました。徹底した言論統制と強烈な抗日教育で韓国国民に日本への憎悪を植え付けたのです。

 サンフランシスコ平和条約に参加を出来なかった韓国政府は1951年7月19日にアメリカに対し、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府およびアメリカ軍政庁への移管、竹島、波浪島を韓国領とすることを要求する要望書を出しました。8月10日にこれらの要望に対しアメリカは「ラスク書簡」にて回答。在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみを認め、その他の要求は拒否されたのです。1952年1月18日 サンフランシスコ平和条約が発効され「マッカーサー・ライン」が無効化されることを見越して、李承晩は海洋資源独占と竹島を占領するため李承晩ラインを再び宣言します。境界線を設定した主目的は日韓両国間の平和維持にあると発表し韓国では「平和線」と宣言されました。

 1952年2月12日 、アメリカは、韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告しますが、李承晩はこれを無視します。当時日本はサンフランシスコ平和条約に署名はしていたものの、発効3ヶ月前であり主権の回復はまだ出来ておらず自衛の手段を一切持っていませんでした。韓国はこの境界線に基づき竹島を不法占拠し、日韓基本条約が結ばれる13年の間で日本の漁船328隻を拿捕し、漁師3,929人を拘束、そのうち44人が死傷しました。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられていました。

 1952年5月〜7月 臨時首都の釜山市で任期を終える李承晩の再選は絶望的でした。そこで大統領の選挙制度を国会議員による間接選挙から国民による直接選挙へと憲法改正をすることで、自身の再選を確実なものにしようと改憲案を国会に提出します。しかし、国会で改憲案は否決されました。そこで官製デモを展開します。デモを理由に釜山で戒厳令を宣布して反対派国会議員を逮捕します。米国や国連から非難されましたが、7月4日には大統領の直接選挙制を軸とする憲法改正案がほぼ全会一致で可決されたのです。8月5日 直接選挙制によって実施された大統領選挙で李承晩大統領は再選を果たすのです。『釜山政治波動』です。

 1954年 当時の韓国憲法では大統領の再任は1回のみでした。李承晩は再任制限を撤廃するために改憲します。しかし結果は改憲に必要な136票に1票不足した135票だったのです。この結果に慌てた自由党は翌日に緊急の議員総会を開いた上で「改憲に必要な203票の3分の2の正確な数値は"135.3333..."であり、自然人を整数では無い小数点以下まで分けることは出来ないから、四捨五入の論理によって、もっとも近い値の整数である135票を得た改憲案は可決されたと見なすべき」との声明を発表して改憲を強行したのです。『四捨五入改憲』です。1956年 自由党は警察と官民を動員して李承晩大統領の出馬を求める官製デモを行います。李承晩はそれを受けて「民意により再出馬する」と声明を発表します。反李承晩勢力が結集して結成された民主党は、1956年3月28日に申翼熙を大統領候補に指名します。

 警察や官吏による選挙妨害にもかかわらず、漢江河川敷で行なわれた選挙演説会では30万を超える聴衆が参加するなど、李承晩の独裁政治に不満を持っていた国民から絶大な支持を集めていました。しかし、申翼熙大統領候補が全羅北道へ選挙遊説するために、乗車していた列車の車中で脳溢血の発作を起こし5月5日に急死するのです。1956年5月15日大統領選挙で李承晩は3度目の当選を果たします。同時に行なわれた副大統領選では、民主党の候補が当選しました。この選挙では曺奉岩を中心とする進歩党も善戦しました。1958年1月11日夜、警察は進歩党の委員長曺奉岩を含む幹部10名を国家保安法違反容疑で逮捕したのです。第一審で曺奉岩に懲役5年の判決が宣告されたものの国家転覆罪については無罪となります。

 曺奉岩以外の進歩党幹部全員に無罪判決が下されました。この判決に対し自由党政権は「反共青年決起大会」と書かれたプラカードを掲げ、「容共判事柳秉震を打倒せよ」「曺奉岩一党にスパイ罪を適用して処罰せよ」等と叫ぶ官製デモを行なったのです。第二審と大法院では曺奉岩被告に対してスパイ容疑で死刑が宣告されます。1959年7月30日 曺奉岩被告の再審請求が棄却されて、翌31日に電撃的に死刑が執行されます。事件から40年が経過した1999年8月、当時の捜査員の一人が「事件は当局によって捏造されたものである」「当時の大統領官邸から、曹奉岩を捕まえなければ李承晩大統領の再当選が不可能なので、どんな手を使ってでも捕まえろ、という指示を受けた」と新聞社に証言したのです。

四月革命

 1960年5月には正副大統領の任期満了に伴って大統領選が行われる予定でした。李承晩政権与党である自由党は12年間にも渡る独裁と相次ぐ失政によって、国民の支持を完全に失っていました。仮に高齢の李承晩が職務を継続できない事態になった場合、憲法の規定で大統領職は自動的に副大統領に継承されるため、この選挙で正副両大統領選挙で勝利することに自由党は全力を注ぎます。官憲や暴漢を動員した不正選挙を展開しました。民主党は大統領候補に趙炳玉を、副大統領候補には現職副大統領である張勉を指名しました。趙炳玉は病気治療のために1960年1月に渡米します。自由党はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定しました。

 民主党の趙炳玉候補は、アメリカで手術を受けた後の2月15日に急死するのです。自由党は、副大統領候補を当選させることが最重要課題となりました。大統領候補を失った民主党は、大統領候補が一名のみの場合は、その得票数が全有権者数の三分の一以上でなければならない選挙法の規定を逆手にとって、李承晩の得票数を三分の一未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、現職副大統領である張勉を大統領候補として再選挙に持ち込む戦術を計画しました。自由党は公務員による選挙運動網を作って、警察がこれを監視する不正選挙を計画しました。「公務員親睦会」を組織して、警察にはいかなる手法を使ってでも自由党候補を当選させるように指示したのです。

 3月15日の投票日には、自由党は全国で腕章部隊や暴漢などを動員して野党側の投票立会人を投票所に立ち入らせないように妨害、3人組や9人組等による公開投票を公然と実施したうえ、自由党票のかさ増し工作もおこなったのです。その結果、少なくない地域で、李承晩・李起鵬両候補の得票率が95〜99%にまで達しました。民主党は本選挙が不正選挙であり無効であると宣言します。3月18日 中央選挙管理委員会は李承晩が大統領に当選、李起鵬が副大統領に当選したと発表します。3月15日の大統領選挙投票日当日に慶尚南道馬山で、民主党側の投票立会人が強制的に投票所から追い出されたことをきっかけに、学生と市民が大統領選の無効を主張して街頭デモを起こしました。これに対し警察はデモ参加者に無差別発砲してデモ鎮圧を図り、8名が死亡、50名余が負傷したのです。

 このデモに参加して行方不明となっていた馬山商業高校学生の金朱烈が4月11日に馬山沖の海上で目に催涙弾が突き刺さった遺体となって発見されました。この事をきっかけに学生・市民が再び街頭デモを展開、反政府機運が高まったのです。4月18日には首都ソウル市においても高麗大学校の学生約3,500名が馬山事件で逮捕された学生の釈放と学園の自由などを求めて市街地をデモ行進しました。その後にデモ隊は国会議事堂前で座り込みをした後、午後7時頃には大学に戻り始めていたのです。ですが鍾路4街付近に差し掛かった時、大統領府の指令をうけた暴徒100名余りがデモ隊に襲いかかり、約20名余りの学生が重軽傷を負う事態となりました。学生デモに対する暴徒の襲撃は学生や市民の強い反発を招く結果となります。

 翌19日、ソウル大学を初め延世大学校や中央大学校などソウル市内の大学生数万名が決起し、デモ行進を行いました。そして同日正午には、大統領官邸である景武台を包囲し、一部のデモ隊は副大統領に当選した李起鵬の自宅を占拠しました。デモには中学高校生や一部市民も参加して午後2時半頃までには、デモ隊の規模は20万名余りにふくれあがり、李承晩大統領の退陣と不正選挙無効のスローガンを叫びます。デモ隊に対し警察は、景武台や中央庁付近で無差別発砲を行い多数の死傷者が出ました。これに激高した一部のデモ隊は市内各所の警察官派出所、与党系の新聞であるソウル新聞社屋、反共会館(3・15不正選挙において前衛隊の役割を担った大韓反共青年団の本部が置かれていた)を焼打しました。デモはソウルのみならず全国各地に波及し、釜山や光州、大邱、清州、仁川など各地方都市でもそれぞれ数千名余りの学生デモ隊が警官隊と衝突しました。

 全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人に登りました。これに対し李承晩は19日午後5時を期してソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告します。しかし軍は政治的中立を維持しデモ隊を鎮圧する行動を行いませんでした。4月21日、国務委員(閣僚)と自由党党務委員が4・19デモの責任を取る形で一括して辞表を提出します。そして23日には李起鵬が副大統領の当選辞退を考慮する旨を表明します。こうした状況下の4月25日、ソウル大学に全国27大学の教授400余名が集結し、大統領と国会議員、最高裁判事の辞任、正副大統領再選挙の実施、不正選挙の処断を求める時局宣言文を採択します。学生と市民は 「4.19義挙で倒れた学生の血に報いよ」という横断幕を掲げて「再選挙の実施」「現政権の退陣」などのスローガンを叫びながらデモ行進を開始しました。その規模は数万名にふくれあがり、世宗路、国会議事堂そして光化門一帯を埋め尽くしたのです。

 そしてパゴダ公園に立てられていた、李承晩大統領の銅像がデモ隊によって引きずり倒されました。こうした事態に、国防部長官金貞烈や許政外相が李承晩大統領に対して辞任を説得します。26日に宋尭讃戒厳司令官(陸軍参謀総長)の仲介によって実現した、大統領とデモ隊代表による会談の場において下野することを表明します。同日午前10時頃にラジオを通じて辞任を発表しました。そして国会では午後緊急本会議を開き李承晩大統領の下野を要求する決議案を満場一致で可決、翌27日に李承晩は公報室を通じて辞任を正式発表し国会に辞表を提出します。李承晩は5月29日にハワイへ亡命して1965年7月19日に90歳で客死し生涯をおえます。やっと独裁政権から解放された韓国ですが、1961年5月には軍事クーデターがおきて朴正煕(パク・チョンヒ)が大統領になり、韓国では独裁政権が続きます。李承晩の説いた捏造歴史を元にして国民への反日教育が続きました。1970年には漢字教育を止めて漢字を廃止することで、愚民化政策を進めて歴史の隠蔽の度合いを深めたのです。

大阪のネトウヨ
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